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 第二章 藩制の成立
   第三節 藩政機構と家臣団
    四 農民支配の機構
      高札と宗門改
 藩の法令は、だいたい代官から組頭(大庄屋)を経て、庄屋へ通達されるのが普通である。ただ、幕府の法令のうち重要なものは、とくに高札で領内の要所へ掲示して周知徹底を図ることがあった。高札は内容によって、キリシタン札とか毒薬札・忠孝札・海上札などといわれている。福井藩内に掲示されたものは天和(一六八一〜八四)頃までに七札あり、のち徒党強訴禁止などが加えられた。高札場は福井藩だけで四一か所、城下九十九橋北詰のほか府中・三国、北陸道や脇街道の宿駅、浦方や粟田部・東郷などに置かれた(「御用諸式目  」 資3)。また敦賀郡だけで一五か所の高札場がみられる(『敦賀市史』通史編上巻)。
 高札は七札すべてが掲示されたわけではなく、最も重視されたキリシタン札がすべての高札場に掲示されたほかは、海上札が湊や浦方というように、内容によって掲示場所も決められていた。九十九橋や府中には六札が掲げられている。
写真75 粟田部村の高札場付近(「五箇村粟田部村絵図」)

写真75 粟田部村の高札場付近(「五箇村粟田部村絵図」)

 農民統制に大きな役割を果したものに、五人組と宗門改がある。五人組のことは第三章第一節に述べるとして、ここでは高札との関連で宗門改についてのみ述べておこう。福井藩では寛永七年八月、「切支丹宗門御改」を行い、家中・町在から「てうす門徒」が一人もいない旨の請書を徴したという(「家譜」)。ただし、寛文期頃までの五人組請書などには、キリシタン条項はみえないようである。
 小浜藩では酒井忠勝が老中であったこともあり、早い時期に実施されている。入封した寛永十一年の法令でキリシタン禁制をうたい、翌十二年には宗門改を実施している。この時忠勝は、五人組の連判と、キリシタンでないことを証明する旦那寺の手形を取り、さらにキリシタンが死亡すると、「塚ニつきこめ、其塚之上ニ木ニ十文字を墨にて引きたて置」くので、注意するようにといった細かい指示まで与えている(『小浜市史』通史編上巻)。また、キリシタンでないことの請書を家族単位で提出させているが、それには「天公・でうす・さんたまりや」の罰を受け、死しては「いんへるの」という地獄に堕ちて、長く五衰三熱の苦しみを受けるとある(中山正彌家文書)。
 宗門改によって、それぞれ宗旨と旦那寺が決められ、すべての者が宗門改帳に登録されることになった。そして結婚  その他に、キリシタンでないことを旦那寺が証明する、寺送証文などが必要になるが、それらについては第五章第一節で詳述することにする。



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