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 第二章 藩制の成立
   第三節 藩政機構と家臣団
    四 農民支配の機構
      身分制の特質
 江戸時代は身分制の社会である。この身分制は普通、士・農・工・商として説明されることが多いが、実際の身分体系や序列からみると、士―農・工・商―賎民という構成となる。すでにみたように、太閤検地によって兵農分離が進むが、武士と百姓を分けただけではなく、商農分離ともいって居住地も含めた百姓と町人の分離もともなっていた。支配者たる武士を城下町に集住させ、武士の御用を承らせるために町人も城下町に居住させた。第四章第一節で述べるように、ここでは侍町と町人町が厳密に区分され、しかも町人町では職能ごとに集住させるなど、居住空間まで区別されることがあった。農村には百姓のみを住まわせ、検地帳に登録して土地に縛り付け年貢搾取の対象としたのである。かくて身分が固定され、原則的に身分の変更が許されない社会が出来上がったのである。
 ところが固定された身分のなかでは、すべて同じ身分かというとそうではなく、身分内の身分ともいえる様々の階層があったのである。例えば、将軍から藩士まで身分は武士である。初めに述べたように、大名にも家格があったが、藩士にも様々な家格があり、複雑かつ厳密に序列付けられていた。また、村役人はもとより地主から小作人まで身分からいえば百姓であり、御用商人もその丁稚も、職人の親方と弟子も町人身分であった。しかしながら第三章でみるように、それぞれによって権利と義務が異なっていて、同じ百姓でも寄合に参加できる者とできない者があり、用水や入会地の用益権にも差がみられた。町人でも家持層と借家層で同じようなことがいえるのである。
 しかし例えば、本百姓と雑家は必ずしも固定的なものではなかった。本百姓から転落する者もいた反面、雑家から本百姓に上昇する者もいたのである。江戸時代も中期以降ともなれば、雑家などが寄合への参加を要求し、山川の用益権を主張するようになって、政治的にも社会的にも大きく成長するのである。それらについては『通史編4』で述べられる予定である。
 他方幕藩権力は賎民制という恐るべき政策を用意した。兵農分離は進展しても、当時の社会や経済の発展段階からして、百姓や町人のようには社会的生業として成り立ちにくい職業に従事する人々、いいかえれば幕藩制下の基本的身分に位置付けられない社会層があり、諸芸能や皮革加工・掃除・行刑に携わっていた。これらの人々は、もともとそれぞれの職能に応じた仕事を分担しており、初めから賎視されていた者ばかりでなく、身分も固定的なものではなかった。皮屋が武具の加工業者として戦国大名に重用されていたことはよく知られている。幕藩権力は、このような人々を、えた(かわた)・非人身分として編成し、身分と職業・居住地を固定してそれぞれに役を課し、規制を強化して百姓や町人との離間を図ったのである。そして、えたは他の身分になれぬ代りに非人の上位とし、非人はえたの下位に置かれたが一部には百姓町人になる途が残されていた。
 若越の諸藩について、賎民制を明らかにすることは史料的に困難である。表47は明治初年の戸数を示したものであるが、おおむね中期以降の実態を反映したものとみられている。ただ史料に精粗があるようで、寺社などの数え方も藩によって違っている。えた・非人についても、このほかに大野藩・勝山藩・小浜藩で知られており、十全の史料とはいいがたいが、大まかな傾向は読み取れる。若狭・越前の特徴は、例えば西日本に比べると、えたや非人が格段に少ないことである。その理由はわからないが、他藩で行われたような冷酷な風俗統制や露骨な差別策もいまのところみることができない。

表47 明治初年若越諸藩の戸数

表47 明治初年若越諸藩の戸数
     注1 *は計算による.その他は史料のとおり.
     注2 『藩制一覧』により作成.

 しかし、小浜藩で百姓一揆頭取の逮捕に向かっているほか、鯖江藩や大野藩でも下級の捕吏の役目を負っていることが知られる。鯖江藩では国外追放の者を町同心などとともに板取宿まで連行し、欠落人  の探索や拷問に当たり、病犬や死馬の処理に当たっている(『間部家文書』)。大野藩では、非人を古四郎  (古城)と称しており、行倒れ人の埋葬や捨て子の世話をしたり、あるいは犯罪人の捜査などを他領の番人と行うなど、城下町の治安の維持に当たることがあった(「大野町用留」)。
 古四郎が脇差を携えることを望んでいることから、差別されたことは間違いないが、注意されることは、大野藩が町人と古四郎が交際をすることをたびたび禁止していることである。このことは見方を変えれば、大野藩にとって見過ごすことのできないほど、町人と古四郎 が日常的に付き合っていたことを示している。古四郎が町人との付合いを広げていくなかに、不断に抵抗する姿と解放への途をみるべきであろう(「大野町用留」)。
 最後に敦賀商人那須好治の身分制批判を紹介しておこう。好治は、延享元年(一七四四)まさに諸藩において風俗統制が厳しくなった頃、「田舎有つての都なり、民有て士立つ、其物を用ひいなから其もとをいやしむる事つまらさることなり、禽獣をいやしめて牛馬を用ひ、ゑたをいやしめて革を用ゆ、すへて世に有物上下皆陰陽のことし、いつれもなくんハ有ヘからさる事」(那須伸一郎家文書 資8)といっている。日常生活で皮革を使用しながら、その必需品の製作に従事する人を卑しむるのはつまらぬこと、いずれも人間の生活に必要不可欠なものというのである。町人としての進取の気質と自信に裏付けられたものであろうが、「民有て士立つ」という言葉とともに重要な指摘といわねばならない。



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