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 第二章 藩制の成立
   第三節 藩政機構と家臣団
    四 農民支配の機構
      郡奉行
 農民支配の責任者が郡奉行である。郡奉行といっても郡ごとに置かれたとは限らず、藩内に一人ということもあり様々であった。小浜藩では酒井忠勝の寛永二十年に、勘定奉行が兼任したことに始まり、やがて四人が加わり六人になった。遠敷郡を下中郡と上中郡とに二分して、管轄地を下中と大飯、上中と敦賀、三方と近江高島郡の三地域とし、二人で二郡を担当した。ただ、実際の支配に当たっては、一人が一郡を担当している(『小浜市史』通史編上巻)。
 福井藩では結城秀康の給帳にみえず、確かな史料で確認できるのは、いまのところ秀康の慶長十年、本多富正と今村盛次の連署状にみえる「郡奉行」(西大井区有文書 資5)や、忠直の時の同十九年「郡奉行金田多兵衛」(慈眼寺文書 資6)などが早い例と思われる。百姓からは「御郡」と呼ばれることもあった。職掌は、承応二年(一六五三)に在々家数改に目付とともに四人の郡奉行が廻村しているように(「家譜」)、下役である代官を指揮して、年貢徴収以下行政一般を司ることであった。しかし、管轄区域そのものなどなお明らかでないことが多い。
 表46は、貞享二年(一六八五)の諸役人を、先述した寺社町奉行や「奉行」、後に述べる代官などを含めて示したものである。これによれば金津奉行とは別に郡奉行が四人みられる。福井藩では、府中本多氏の知行所のうち丸村を除いて、領内を南から上領・中領・下領の三つ、もしくはそれに川北領を加えて四つに分けて支配している。この三、四領の区域は郡を越えて組み合わされているが、領知高によっても違っていたようで、必ずしも固定的なものではなく、その始期も明らかにすることができない。これらの領ごとにそれぞれ郡奉行が置かれたのである。

表46 貞享2年(1685)諸役人と知行高

表46 貞享2年(1685)諸役人と知行高
         注1 空欄は不明.
         注2 「諸役年表」「綱昌給帳」(松平文庫)により作成.



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