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 第二章 藩制の成立
   第三節 藩政機構と家臣団
    四 農民支配の機構
      初期農政の特徴
 寛永元年(一六二四)松平忠昌は町在に宛てて、忠直時代に「欠落」(逃亡)した者をどのような理由があろうとも還住させること、よく調べたうえで希望する地に居住させること、男女を理由なく領外へ出させぬこと、男女とも永代売買を禁止することなどを令することがあった(「家譜」)。
 小浜藩でも先述のように、京極忠高が寛永五年「国中郷組御定被仰出条々」(清水三郎右衛門家文書 資9)において、組中村々の百姓を一人も「走らせ」(逃亡)ないこと、もし走百姓が出たら五日の間に尋ね出すこと、代官・給人が非分を申しかければ訴え出ることなどを命じている。酒井忠勝もまた寛永十一年、とくに小浜町と敦賀町に対して人身売買を禁じたほか(「酒井忠勝書下」)、徒党を組み一味神水した者は死罪、キリシタンの禁止、年貢の完納などを令しているが、走百姓と代官非分についてはほとんど京極氏のものを踏襲しており、かつ連帯責任規定がより厳しくなっていることが知られる(荒木新輔家文書 資9)。とくに初めの三項は、五人組の請書にも強調されているのである(刀根春次郎家文書 資8)。
 すでにみたように、浅野長吉(長政)は天正十五年(一五八七)有力百姓が小百姓から作合を取ることを禁じるとともに、走百姓を呼び返し、田畑が荒れないように申し付け、松平忠直もまた百姓の「欠落」を戒めることがあった。これらは作合否定政策・農民還住奨励策として、当時の農民支配の基調を示すものとされ、長吉以降諸大名に受け継がれているのである。まことにこの時期の大名にとって、百姓を確保して耕作に専念させ、年貢夫役を徴収することが最大の課題であった。江戸時代が本百姓に基礎を置いているといわれるのもこのような意味においてであった。
 寛永十九年と二十年には、江戸時代前期における最大の飢饉が起った。福井藩の状況ははっきりしないが、小浜藩では十九年に庄屋たちの直訴が続き、小浜の町人も不穏な動きを示すなど社会不安は高まっていた。また大幅に減免したにもかかわらず、納入予定の三一万俵に対して未進が六万俵にも及んだという。忠勝は繰り返し百姓を餓死させてはならぬと指示するとともに、領内に三万俵近くの貸米を行い、種貸や施粥も実施している(『小浜市史』通史編上巻)。
 この時忠勝は、代官に検見や引捨分について細かに指示して、このような心配りをする大名は「御領私領共余り多くはこれあるまじく」と誇らかに述べている。同時に我が仕置に背く者は後々のために、たとえ「其村潰レ候共速ニ死罪に申し付くべし」ともいっているのである(酒井家文書)。このように恩威並び行うのが封建支配の特徴でもあった。
  したがって年貢を滞納したり、隠田といって土地を隠し持つことは厳しく禁じられていた。米二石の年貢不納のために子供を永代譜代に取られたり(中村吉右衛門家文書)、年貢を納めるために種籾を質に入れ、塩桶・牛馬・子供まで売り捨てにせざるをえなかった者や、銀数十匁でせがれや弟を売る例も決して珍しいことではなかった(中山正彌家文書)。松平忠昌と酒井忠勝が申し合わせたように人身の売買を禁止せざるをえなかったのは、代官などの非法によることも多いとはいえ、政策の矛盾を示すものにほかならず、理由のあることでもあった。
写真74 子供の売券

写真74 子供の売券

 隠田の摘発にも厳しいものがあった。松平忠直は慶長十六年(一六一一)足羽郡荒木新保村で隠田を申し出た者に「扶持分」として三〇〇石与え(高波武右衛門家文書)、元和元年(一六一五)廃された敦賀城の跡地にまで三ノ丸畑地子や御城屋敷地子を課している。忠昌も寛永元年、検見のかたわら「川かけ・永荒・附荒」の「地詰」(検地)を申し付けている(「家譜」)。また幕府代官古郡文右衛門の支配下大野郡小矢戸村の作左衛門は、宝永元年(一七〇四)三反七畝一三歩の田畑などを「隠地」にしていたとして死罪獄門、せがれ二人が牢舎、妻と娘は親類預け、そのうえ田畑家財を闕所に申し付けられているほどである(『徳川禁令考』後集第二)。
 このような厳しい方針のもとに、直接農民支配に当たったのが郡奉行と代官であり、また代官の下代であった。百姓には連帯責任による密告を奨励させるとともに、横目が在々を徘徊して百姓の非分を摘発したり、代官などの非違を監視していたのである(広瀬与右衛門家文書 資7)。



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