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 第二章 藩制の成立
   第三節 藩政機構と家臣団
    三 藩財政の仕組
      紙の統制
 今立郡五箇の地は、奉書紙など高級紙の産地として有名であり、守護大名以来歴代北庄城主の保護と統制を受けてきた。結城秀康も慶長七年(一六〇二)九月十日鳥子屋才衛門に鳥子役を申し付けて諸役を免許し(内田吉左衛門家文書 資6)、翌十一日には三田村掃部を従前どおり奉書紙職とするなど(三田村士郎家文書 資6)、入封後ただちに統制を加えることがあった。
 奉書類は全国的にも越前名産として知られており、贈答品としても盛んに利用されている。諸大名は、年末年始や五節句などに、将軍家へ領内の名産を献上するのが習わしであったが、福井藩主や本多富正・多賀谷左近などへ宛てた徳川秀忠や家光の内書(礼状)に、奉書や鳥子・間合などの越前紙が数百枚あるいは数十帖到来したことが記されている。寛永期の俳書『毛吹草』にも、越前の特産として奉書のほか鳥子・雲紙・薄様・厚紙などがみえる。また備後福山藩水野勝俊は、正保二年(一六四五)領内の紙漉きのうち、「としわか(年若)く、りはつ(利発)、さいかん(才幹)成るもの二人」を、「越前へ奉書をすき(漉)候事なら(習)はせニ遣」わしている(『小場家文書』上)。五箇が技術的にも先進地であったことが知られ、技術伝播の面からも興味深い。
 初めは三田村掃部が独占的に漉いていたが、忠直の頃になると似紙造りが現れてきたようである。代官大町靱負や大見彦三郎は秀康の黒印状を根拠に、五箇の「紙屋中」が長高・正宗・奉書・間ノ紙を漉くことを繰り返し禁じている。その理由は、似紙を漉く者があって三田村和泉が「迷惑」と訴えたからだとあり、違反者から紙漉道具を取り上げることにしている(大滝神社文書・三田村士郎家文書 資6)。さらに寛永期に入ると、豊富な資金にものをいわせて新規に「舟」(紙漉舟)をたて、紙座の統制を破る新興の紙屋も現れてきたようで、原料の「紙草」(楮や三叉)をめぐる争いもたびたび起っている(大滝神社文書中の川崎家文書・三田村士郎家文書 資6)。
 延宝三年十一月、福井藩は五箇で生産する奉書は、どのような種類のものであっても他国出しを禁じ、すべて藩が買い上げることにしたが、二年で廃されている。同六年には、一束の目方が一貫目以上の奉書(高級品)の自分売を禁じるとともに、それ以下のものを商奉書として許可を得たうえでの販売を認め、他国諸大名の誂奉書も許可を得ることにし、引合紙と五色奉書もこれに準じることにした。また半紙と中ノ目・土佐紙については他国出しを禁じている。そして紙改役に旧来の三田村和泉に加えて、近江・山城・河内等四人の「御紙屋」をもって充てた(『今立町誌』第一巻本編、岩本区有文書)。
 この体制はしばらく続くが、やがて元禄十二年、紙会所を設置して判元制を採用し、本格的な専売制が実施されるのである。



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