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 第二章 藩制の成立
   第三節 藩政機構と家臣団
    三 藩財政の仕組
      福井藩の藩札
 このような財政難に対処するため、福井藩では松平光通の寛文元年八月藩札を発行した。藩札は、備後福山藩水野氏が寛永七年に発行していることが知られるが、畳表や木綿などの比較的発達した商品経済に対応したものと考えられているので、藩財政を補填するものとしては福井藩が最も早い例とみられる。
 須崎三郎右衛門(知行三五〇石)と山元八右衛門(三〇〇石)を札所奉行、五人の藩士を「請込」などに任じたほか、城下の豪商慶松五右衛門と金屋七兵衛に米三〇〇俵ずつを与えて札元、同じく駒屋  善右衛門と荒木七郎右衛門を「両替并包座」(「両替座」)として、実際の発行事務や両替の衝に当たらせた。寛文二年十二月には、表45のように領内の要所に札場を置いて、その地の有力者をもって充てた。札所奉行は寛文八年から八右衛門一人となり、その後小島権大夫(五〇〇石)、香西八郎兵衛(二五〇石)と代り、延宝八年から坂田金大夫(扶持米取)、貞享二年には鈴木源兵衛(一〇〇石)が任じられている(「札所覚書」駒屋節二家文書、「諸役年表」松平文庫)。

表45 在々の札場

表45 在々の札場
  注) 「札所覚書」(駒屋節二郎家文書)により作成.

 なお、金屋七兵衛は、藩札発行の資金として金一万両を調達したが、寛文十一年「お断わり」に遇い、証文を返上させられたという。翌年足羽郡賀茂山の内に山屋敷を賜り、諸役を免除されているのは(金屋慶治家文書 資3)、これの代償であると伝える(「金屋氏家譜」金屋慶治家文書)。「お断わり」とは借金を踏み倒すことで、大名がよく使った手段であるが、この時対象になった商人の範囲は明らかでない。
 藩札用の紙は今立郡五箇で漉かれたが、事がことだけに厳しい管理のもとに置かれていた。後のことであるが、古札の払下げが厳しく定められているほか、宝暦四年(一七五四)には札紙の漉立てに従事した七人(うち女三人)の漉子が、楮や三叉の混ぜ具合、紙漉の過程で見聞したことを他人はもとより親兄弟にも口外しないこと、屑紙の一片でもいっさい隠し置かないこと、他からの誂えで札紙に似たものを漉く者がいたら申し出ることなどについて、起請文を提出していることが知られる(加藤河内家文書 資6)。
 福井藩札は現在すべて残っているわけではないようであるが、『北陸古泉会第百回記念泉譜』や『藩札図録』によれば、寛文元年から数年の間に、一分札から九分札までの九種、一匁札から十匁札までの一〇種、および五十目札と百目札の、少なくとも二一種類が発行されたようである。そして十匁札以上を「大目札」、九匁以下を「中目札」と称しており、天和期にも「中目札」が発行されていることが知られる。藩札には駒屋  善右衛門と荒木七郎右衛門の名が印刷されているが、七郎右衛門は途中から荒木長右衛門になっている。 写真73 福井藩寛文元年札

写真73 福井藩寛文元年札

 藩札発行の目的は、藩の財政難を打開するためであったから、領内には藩札を流通させ、代りに正金銀を藩庫に集中することが図られた。岩本村の惣中が、金銀を内密に取り扱わないこと、他国へ商い荷物を販売したら「その金銀を御札所にて少しも残り無く御札買い申すべく候」といい、もし内密に扱っている者がいたら「御札所まで御注進申し出ずべく候」と、請書を提出していることがそのことを示しているといえよう(岩本区有文書 資6)。
 藩札はもともと領内のみに通用するものであったが、藩の信用度によっては領外にも通用した。福井藩札は、京都・大坂のほか近国中に流通したとも伝えるが(「大安院殿御時代雑録」松平文庫)、全体の発行量や流通の状況は必ずしも明らかでない。貞享三年の半知の時、藩札が整理されたが、この時の「惣札高」が九三九貫八〇〇匁とある。一〇〇匁が一両で両替されているから、小判にすると九三九八両にしかならないが(「家譜」)、実際にはこれよりはるかに多く発行されたであろう。
 福井藩札は、この後松平吉品の元禄十五年再び発行されたが、宝永四年(一七〇七)幕府の禁止令によっていったん停止された。その他の藩では、元禄十二年丸岡藩、同じ頃勝山藩でも発行されている。その後享保十五年の解禁によって再び発行されるようになり、同年の大野藩、寛政十年(一七九八)小浜藩、天保十一年(一八四〇)鯖江藩のほか、鞠山藩も発行し、府中本多氏や旗本金森氏も独自に銀札を発行することがあった(『藩札図録』解題)。なお、丸岡藩や大野藩の藩札も、五箇で漉かれていたことが知られている(加藤河内家文書)。



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