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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第二節 織田期の大名
    一 柴田勝家の越前支配
      知行安堵
 信長より越前の「多分」(大部分)の支配を預けられた勝家が早急に取り組むべきおもな課題としては、軍事力の強化という恒常的な課題のほか、信長の徹底した一向一揆討滅によって荒廃した国内状態の復興、国内の武士や寺社への知行分の安堵と宛行い、新たな本拠地としての北庄城とその城下町の建設があった。
 まず荒廃状態からの復興についてみると、天正三年九月に勝家が信長の禁制に添えるかたちで発した三か条の「定」の第一条に、農民や寺社は元の在所に還住すべきことがあげられている(龍澤寺文書・御前神社文書 資4)。ただし天正六年になっても、元の河口荘十郷について勝家自身が「先規に替り荒地多く」と述べているように、耕地の荒廃状態は急速には回復しなかった(大連彦兵衛家文書 資4)。また、足羽三か荘の商人である橘氏や慶松氏にも還住が命じられているが(橘栄一郎家文書・慶松勝三家文書 資3)、これは後述する城下町北庄の建設と関連している。
 越前国内の荘園は信長が認めたものは存続することになっていたが、朝倉氏時代にはなんとか年貢納入がなされていた天皇家領吉田郡河合荘の年貢納入は、信長時代には途絶えたと考えられる。また、天正三年八月に大乗院門跡尋憲自ら越前に下って信長に回復を求めた興福寺領河口荘・坪江郷も、同年九月十六日に信長の安堵朱印状が出されたとの報告があったが、結局これは誤報とわかり、興福寺のぬか喜びに終った(『多聞院日記』)。このほかには荘園領主に対して年貢納入のあったことは知られないので、ほとんどの荘園が消滅したと考えられる。
 他方で勝家は、十月に入ると武士に本知行分を引き渡し始めたと判断される(松井文書 資2)。この本知行分とは、天正元年九月から十月にかけて信長が国内の武士たちに認めた「本知分」と考えられる。また、勝家の家臣とみられる平井伊賀守という武士が、坂井郡北潟辺りの寺院とみられる鏡乗坊の本知行分を、勝家の安堵状に任せて引き渡すよう現地の代官に命じており(寸金雑録 資2)、寺社本領の引渡しも始められている。十一月になると、信長による国内直臣に対する新知行分の宛行いがみられるようになるが、その新知行高は朝倉氏滅亡後の越前の支配を委ねられていた桂田(前波)長俊の時に定められた額が継承されている(古案 資2)。
 このように知行分の安堵や宛行いが進められたが、この知行分は朝倉氏時代の本役と内徳(中間得分)をその内容としていた。例えば天正四年二月に勝家は丹生郡大谷寺に宛てて、寺の境内と認定されている寺敷より二三貫文を先々どおり納入せよと命じているが、この額は享禄二年(一五二九)に朝倉氏より確認された地頭へ納入すべき本役分なのである(越知神社文書 資5)。すなわち大谷寺はこの寺敷に関しては内徳分知行者なのであり、この時に朝倉氏時代の地頭の本役収納分を知行分として認められた者とのあいだに紛争が生じていたことをうかがわせる。勝家は朝倉氏時代の複雑な本役・内徳の収納関係を継承することにより、このそれぞれの権利をもつ者のあいだの紛争をも引き継ぐことになったのである。
 さらに勝家は、領内支配の拠点として北庄城とその城下町建設を急がなければならなかった。そのためには領内の竹木の確保とともに、多くの人夫徴発を必要とした。しかし城と城下町建設を強行するこの政策は、勝家のもう一つの基本政策である荒廃農村の復興と矛盾する。ようするに、勝家の課題とされた諸政策をそれぞれ強行しようとすると矛盾が生じてくるのである。こうして勝家は諸政策のあいだの矛盾を調整し、全体として統一のある方針を徹底させる必要に迫られた。天正四年三月三日に「国中江申出条々」として村々に公布された掟はこうして生まれたものである(大連三郎左衛門家文書 資4、野村志津雄家文書 資5)。



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