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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第二節 織田期の大名
    一 柴田勝家の越前支配
      越前の国割
 一向一揆を壊滅させた信長は、天正三年(一五七五)九月付で軍勢などの乱妨、山林竹木の伐採、放火を禁止するという三か条の禁制を越前各地に出し、治安回復に努めている。信長はこれとよく似た禁制を、朝倉義景を滅ぼした天正元年八月にも出しているが、今日残されている禁制からみると、天正元年と同三年の禁制をともに伝えている例はないから、天正三年の禁制は、元年の禁制を与えられていなかったところに出されたものと考えられる。

写真9 金森長近像

 信長は、一揆残党の山狩を行っていた頃の八月二十二日に京都所司代の村井貞勝に宛てて、天正元年八月に朝倉氏を滅ぼした時には急いで浅井氏を討つために越前を離れたが、このたびは五〇日でも越前に逗留し、前回のように越前の反信長勢力が「ふしおき(伏し起き)」(再起)しないように念入りに国支配の処置をするつもりであることを述べている(古文書纂 資2)。ここに越前の国支配についての信長のなみなみならぬ決意を知ることができるが、その具体的なありかたは九月二日に定められた。一向一揆の支配の及ばなかった敦賀郡はそのまま武藤舜秀の支配が認められたが、その他の地域については、柴田勝家に八郡(坂北・坂南・吉田・足羽北・足羽南・丹生北・今北西・今北東)、前田利家・佐々成政・不破光治の三人に府中辺二郡、金森長近と原政茂に大野郡の三分の二、三分の一がそれぞれに与えられた(『信長公記』)。前田利家等三人の支配する二郡とは、今南西・南仲条の両郡を指すとみられるが、丹生北郡(丹生郡)の平等村や大井村が彼等の所領となっており、支配が郡を単位としていたと考えるならば、丹生北郡の郡域は後の丹生郡とは異なっていたことも想定される。なおこの時に勝家が北庄に城を築いて本拠とすべきことも定められたと考えられ、九月十一日には勝家の養子勝豊が坂井郡豊原寺の城を守備することとされている(山田竜治家文書 資3)。
 このような越前の分割支配においては、柴田勝家の権限が強く、前田利家以下の武将は柴田勝家の家臣ではないが勝家の軍事指揮権に服する与力とされた。この後に軍事行動をともにしている「越前衆」とは、勝家の率いるこの軍団を指す。信長が勝家に国を預けると表現しているのは(『信長公記』)、勝家へのこのような一国軍事指揮権の付与を意味している。後に越前で勝家に会ったイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、勝家はこの地における信長のような人であり、人々は勝家を上様と称し、勝家の子を殿様と呼んでいたことを伝えている(「ルイス・フロイス書簡」)。さらに信長は、府中辺二郡を支配した前田利家等府中三人衆は勝家の目付として置かれたものであること、および府中三人衆の行動については勝家からも報告させることを述べ、勝家と府中三人衆は「互いに磨き合」って領内の支配に当たるようにと指令している。
 柴田勝家は初めは信長と敵対していた信長の弟信行の家臣であったが、信行を裏切り、弘治三年(一五五七)の信長による信行殺害を助けたという経歴をもち、越前支配を委ねられた時には佐久間信盛とならぶ信長の重臣であった。『信長公記』は、信長は勝家が信行を裏切った功績に報いるため、大国越前を与えたのだとしている。勝家は元亀元年(一五七〇)近江長光寺城において六角承禎の軍勢に囲まれた時、城中の飲み水を入れた瓶を割って決死の覚悟で出撃し、敵を撃退したことから「瓶割り柴田」の異名をもつ猛将で、のち北庄城で勝家を敗死させた羽柴秀吉も勝家のことを「日ごろ武篇を仕付けたる武士」と評している(『毛利家文書』)。前田利家は幼年の時より信長に仕えた武将であり、そのほか越前の支配を認められた佐々・不破・金森・原もこれまで信長の武将として活動してきた者たちであった。すなわち信長の越前支配は、国内に有力武将を配置して統治に当たらせるとともに、重臣の勝家が軍事指揮官として他の信長武将を統轄するが、それぞれの政治や行動については相互に監視や牽制をすることにより、信長の意図どおりの国支配が行われるような体制となっていたのである。
 信長は国支配の体制を整えただけではなく、天正三年九月に九か条からなる「掟」を勝家等に示し、国支配の心得について詳細に伝えている(『信長公記』)。その掟のうちおもなものをあげると、まず領内支配については、越前という大国を預けるのであるから軍事力の強化に努めよとしつつ、国中に無理な課役を課してはならず、裁判を正しく行うことを命じ、この課役や裁判について必要な場合には信長の指示を仰ぐようにと定めている。また、荘園については信長が朱印状によって認めているものは、荘園領主に引き渡すべきことを伝えている。さらに国内の武士に対する支配に関しては、朝倉氏時代より越前に本拠をもち、信長より直接に朱印状を与えられて知行を安堵されている信長直臣である「国に立置候諸侍」の扱いについても述べている。これら信長直臣を自分の家臣と同じように勝手気ままに扱うことは許されないが、逆に彼等に対して「帯紐を解候様ニ」油断し、無警戒であってはならないと指示し、知行地も厳重に彼等に渡すように命じている。また領内に、軍功あれば給地として与えるという地を二、三か所も用意しておけば、武士たちの励みになるであろうと、細かい指示も与えている。そして最後に信長に対する心構えとして、何事も「信長申次第ニ」心得て処置せよ、ただし信長の言うことが無理・非法と考えられる時はその旨を言上せよと述べ、ともかくも信長のことを少しもおろそかにせず、信長のほうには「足をもささざるやうニ心もち簡要」で、そうすれば「侍の冥加有つて長久たるべく候」(侍としての加護があって長久であろう)と締めくくっている。この掟で信長は、国を預けられた者は信長の意図に忠実な、国を支配する「侍」としての自覚が必要であることを仮名交じりの文章で具体的に述べたのである。
 これ以前に信長が摂津国を荒木村重に預けたように、国支配を武将に委ねることは越前で始まったことではないが、一向一揆の再起を阻止するという意図もあって、越前の場合は有力武将の配置といい、彼等に与えた信長の指示といい、かなり徹底したものであり、織田政権の一つの画期をなしている。
 右に述べた「国に立置候諸侍」とは、具体的には堀江・新開・千福・赤座・鞍谷・諏訪などの武士を指すが、彼等の多くはその本拠地を支配する勝家や府中三人衆などの与力とされている。ただし信長が千福遠江守を越前より召し寄せ、安土城の二の丸番衆とするような場合もあった(千福文書、『信長公記』)。また、天正五年頃の中国地方における情勢は明智光秀より堀江藤秀(景忠)等「当国面々」に直接伝えられており(滝谷寺文書 資4)、彼等信長直臣は情報伝達において特別に扱われることもあった。



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