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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第一節 織田信長と一向一揆
     二 一向一揆の越前支配
      信長の越前侵攻と一揆の壊滅
 天正二年四月に本願寺顕如が信長に対して兵を挙げ、五月には甲斐の武田勝頼が遠江に出兵してきたため、信長はその対処に追われていた。しかし同年九月に伊勢長島の一向一揆を滅ぼし、翌三年五月に三河長篠の戦いで武田軍を大敗させた信長は次の攻略目標を越前一揆に定めた。美濃から大野郡に侵攻することになっていた金森長近は、七月二十三日に攻撃が始まったならば味方するように大野郡の高田派専福寺や国侍の野尻氏などに伝えている(友兼専福寺文書 資7)。また信長は三国の有力商人森田三郎左衛門を味方に付け、彼をかいして堀江景忠に一揆を裏切る密約を成立させたという(「朝倉始末記」)。
 信長は八月九日に大和・山城国衆に動員をかけており(『多聞院日記』)、十四日には敦賀に到着した。この信長軍には若狭の粟屋勝久・逸見昌経・熊谷伝左衛門等も海上軍として参加していた。これに対して下間頼照等は越前国内に出動を命じたが、百姓たちは、これまで所領を支配して、ぜいたくをしてきた者たちが出陣すればよいと言って、動員に応じない者が多かったという(「朝倉始末記」)。八月十五日は風雨の強い日であったが、信長軍は木ノ芽峠攻撃の丹羽長秀・滝川一益・蜂屋頼隆などの軍勢と、杉津口攻撃の羽柴秀吉・明智光秀・柴田勝家等の軍勢の二手に別れて総攻撃を開始した。杉津口を守っていた円宮寺と若林長門守の兵の背後から寝返った堀江景忠が鉄砲で攻撃したため、この守りは突破された。木ノ芽峠においても城は落とされ、城兵は府中に退いたが、杉津口から乱入してきた信長軍に待ち受けられて討たれた。十五・十六両日に府中町で討たれた者だけで一五〇〇人に達し「府中町ハ死がい計にて一円あき所なく候」と信長が述べているような惨状を呈した(泉文書 資2)。また美濃からは金森長近と原政茂が侵攻した。八月十八日には今立郡鳥羽城も落ち、二十八日に信長は下間頼照の本拠であった豊原寺に陣替えをしている。
写真8 円宮寺(武生市)

写真8 円宮寺(武生市)

 惣大将の下間頼照は、信長の八月二十二日書状によれば丹生郡風尾に逃れようとしたところを討たれたとしているが(古文書纂 資2)、これは誤報らしく、十月になって脱出しようとして三国湊を目指していたところ、坂井郡下野村において高田派黒目称名寺の門徒によって討たれている(称名寺文書 資4)。信長による一揆の残党狩も苛酷をきわめた。信長は二十一日までに少なくとも六六〇〇人の首を切ったと述べているが(古文書纂 資2)、『信長公記』によれば、山々に逃げ上った者は男女かまわず切り捨てよとの信長の命令を受けて、十五日より十九日まで一万二二五〇人が殺されたとし、その他諸国の信長武将が奪い取った数をいれると合わせて三、四万人にもなるであろうとしている。寺領の河口荘の安堵を求めて越前に下向した興福寺大乗院門跡尋憲が、八月二十九日に豊原寺の信長を訪ねた時にも山狩が行われており、山中で討ち果たした者については鼻を削いで持ち帰り、生捕りにした二〇〇余人はただちに首を切るという凄惨な状況が続いていた(山田竜治家文書 資3)。一揆に対するこのような苛酷な態度は信長の冷酷な性格にもよるが、武士を結集することにより天下統一を成し遂げようとしていた信長にとって、百姓による一揆持ちの理念を孕む一向一揆は、徹底的に破壊しなければならないものであったからである。



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