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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第一節 織田信長と一向一揆
     二 一向一揆の越前支配
      一揆統制と一揆蜂起
 このように天正二年後半においては「一揆持」の国から、本願寺領国への転換が進められた。下間頼照等支配者は七月には一揆の指導者を先制攻撃により討ち取り、一揆の不穏な動きを封じた。しかし指導者を謀殺された十七講の門徒の動きは静まらず、自己の門徒を一家衆・大坊主の直参とされた道場坊主たちのあいだにも不満が高まっていた。十月十一日に鉢伏城から賢会支配下の坊主衆である善覚・老原・勝秀などが逃亡しているのは、坊主衆の不満の表れであろう。このような動きがかなり広くみられるようになったため、本願寺顕如は坊官の池尾を越前に下した。十月二十日に北庄に下着した池尾は、一家衆・坊主衆・惣門徒衆それぞれに宛てた顕如の書状を披露した。賢会も北庄に赴き三日間これを広めたと述べている。この顕如書状のうち惣門徒宛のものが大塩円宮寺に寺宝として伝えられていたが(「増補南越温故録」)、それによると今度の越前の錯乱は惣門徒の尽力で静まったが、今こそ「馳走」することが仏法興隆であり、忠節を尽くすことが真実の報謝であるとされている。このやや抽象的な顕如書状の具体的な内容は「委細七三(七里三河守頼周)申すべく候なり」と末尾に記されており、府中辺の門徒に対しては郡司の七里頼周から伝えることになっていた。これにより、本願寺領国の行政的支配単位である郡ごとに門徒も編成されていたらしいことがうかがえるが、この文書が円宮寺に寺宝として伝えられていたこと、賢会が顕如の文書を広めたと述べていることからして、郡司とならんで一家衆・大坊主も門徒説諭の場に臨んだものと考えられる。また坊主衆に対しては下間頼照が招集して説諭した。なお、このとき顕如は金沢と同じように、北庄にも御堂を建立することを表明している(勝授寺文書 資4)。この計画がどの程度実行されたかは不明であるが、越前の信仰と統治の中心点としての御堂建設が意図されていたのであろう。
 しかし本願寺顕如の指令によっても越前国内の対立は解消しなかった。十一月に三国滝谷寺の神羽寺などに大蔵新三という者が、狼藉禁止を保証する「御制札」発行のための銭を催促していたことが知られるが、不穏な状況を背景とした行動であろう(滝谷寺文書 資4)。閏十一月十九日に吉田郡河合荘を中心とする一揆三〇〇〇人が蜂起し、下間頼照の本拠である坂井郡豊原寺の攻撃に向かったが、頼照配下の若林長門守の率いる軍勢に阻まれ大敗した。一揆を迎え討つ長門守は部下の者に、戦功あれば「凡下ナラバ侍ニナシ、武士ナラバ直ニ恩賞ヲ与フベシ」と檄を飛ばしたといい(「朝倉始末記」)、凡下(一般庶民)の解放意欲を歪めた形で利用しようとする本願寺坊官の軍勢は、戦国大名の軍勢となんらの違いもなかった。次いで十二月には足羽郡東郷安原村  の鑓講の人々が蜂起し、深雪の中を足羽郡司下間和泉守を討つべく北庄に進んだが、多くの死者を出して敗退している。
写真7 鉢伏山眺望図(『越前国名蹟考』)

写真7 鉢伏山眺望図(『越前国名蹟考』)

 こうした国内対立のなかで人々は確固とした見通しをもつことができず、疑心暗鬼に陥りつつあった。法敵信長打倒の揺らぐことなき思いを、在番中の鉢伏城から一族の諸江氏に書き送っている賢会の書状の中に、「いつかたにても聊爾ニ(軽率に)物を仰事候まじく候」、「少も悪口候ば、その身のたおれのもといにて候」などの文言がみられ(勝授寺文書 資4)、いつ密告されて失脚するかもしれないという一種の恐怖政治が行われていたのである。
 本願寺の意図はまもなく侵攻が予想される信長軍に対抗するため、本願寺の統制下に置かれた軍事力をもつ領国を形成することにあった。そのため一方では、朝倉氏時代以来の領国統治制度である郡司制度を継承して郷村を支配し、朝倉氏旧家臣の支配を認めてその軍事力を掌握しようとした。そのためこの支配体制から多少とも自立的な一揆に対しては、首導者を殺害するなどして一揆の自立性を奪った。これは戦国大名の百姓支配を踏襲するものである。他方で、本願寺の支配が他の戦国大名と異なる点は門徒に支えられていることである。門徒掌握については、道場坊主から門徒を切り離して一家衆・大坊主の支配下に置こうとした。しかし門徒は知行地の代りとして確保されるベきものという性格をもっており、円宮寺の例にみられるように、門徒は村を単位にあたかも知行地のごとく与えられている。この意味で門徒支配にも領国支配の論理が貫徹しているのである。



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