本願寺より派遣された坊官と越前の大坊主によって進められたこのような統制は、一揆勢の反発を招くことになった。一揆勢は、坊主たちが百姓を下部や下人のごとく扱うこと、および一揆が切り取った国を本願寺派遣の「上方ノ衆」がもっぱら支配することに不満をもち、十七講の人々のあいだには大坊主討つべしの声が高まった。これを察知した本覚寺は、先手を打って七月十四日に十七講主の志比の林兵衛が盆の念仏参りに北庄に来たところを喧嘩に事寄せて殺害したのをはじめとして、丹生郡天下村の川端、吉田郡河合の八杉、坂井郡本庄の宗玄など一揆の指導者を襲って殺したのである(「朝倉始末記」)。この少し後の七月二十日には、信長は越前国内の高田専修寺・朝倉景健・堀江藤秀などに自分が越前に出兵したならば味方するよう、羽柴秀吉や菅屋長行を通じて工作している(法雲寺文書 資5)。このような動きのなかで、下間頼照等による一揆統制と信長軍の侵攻に備えての領国支配がさらに強められていく。
九月になると下間頼照は、朝倉氏旧臣三輪藤兵衛の知行分を「義景御時の如く」安堵している(松雲公採集遺編類纂 資2)。朝倉氏旧臣の知行安堵についてこのほかの例は知ることができないとはいえ、国内武士に朝倉氏時代の支配を保証することにより、彼等を軍事力として確保しようとしたものとみることができる。次に十月には、府中辺の郡司七里頼周の配下の者が南条郡三尾河内に赴き、指出を徴収している(勝授寺文書 資4)。指出とは、村人にその在地のこれまでの年貢額などを報告させ、その年貢納入を誓約させることを意味するから、下間等本願寺坊官による農民支配は戦国大名朝倉氏と変わらないことを示している。十二月には三国滝谷寺が寺領の年貢・地子の指出を提出しており(滝谷寺文書 資4)、寺社の知行高の掌握も進めている。閏十一月より十二月にかけて、下間頼照が大野洞雲寺・越知山大谷寺・大野鍬掛洪泉寺・吉田郡昌蔵寺の寺領を安堵しているのは、こうした指出を踏まえてのことであったと判断される。 |