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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第一節 織田信長と一向一揆
     二 一向一揆の越前支配
      本願寺の越前支配
 一揆がいわば実力で切り取って本願寺門徒の国とした越前について、本願寺の側は当時全面的対立の様相を強めていた信長に対する、本願寺の包囲網に加えられた新たな国という戦略的な位置付けをしていた。したがって越前を一揆の自治的な支配に委ねることはできず、本願寺の戦略に即して一揆に統制が加えられなければならなかった。またそのための方策を、本願寺は加賀一向一揆の一〇〇年近くにも及ぶ内紛に満ちた歴史のなかから経験的に学んでいた。
 本願寺は一揆を統制するための惣大将として二月に本願寺坊官の下間頼照を派遣した。二月二十日に坂井郡竜沢寺に下間頼照の安堵状が出されており(龍澤寺文書 資4)、また四月には堀江藤秀(景忠)が三国の滝谷寺に対して、頼照の寺領安堵状を得ることが必要であると述べているから(滝谷寺文書 資4)、頼照は軍事的な最高指揮者を示す惣大将という権限のみならず、寺領安堵などの政治的支配権も認められていた。「朝倉始末記」が頼照を「守護」と呼んでいるのは、頼照のこのような軍事的・政治的支配権を表したものであろう。六月下旬に木ノ芽城の信長守備兵を退却させて、本願寺・一揆勢が越前嶺北部を支配するようになると、守護頼照のもとで足羽郡司に下間和泉、大野郡司に杉浦玄任、府中辺の郡司に七里頼周が任命されたという。大野郡司は朝倉氏の大野郡司の権限を引き継ぐものであろうし、足羽郡司は朝倉氏時代の北庄朝倉土佐の権限を、府中辺の郡司は朝倉氏の府中両人の権限を継承するものであろう。足羽郡の平乗寺法善は足羽郡司下間和泉に属して戦ったと伝えられており(平乗寺文書)、先にみたように、朝倉氏の大野郡司は郡内の本願寺門徒に対して鑓持を徴発する権限をもっていたから、郡司は郡内の軍事動員に当たっていたものと思われる。
 一揆が国をほぼ制圧した天正二年六月以降、鑓講・十七講という門徒の組織がみえ始める。十七講とは月の十七日に集りをもつ講のことであろう。したがって、一揆は村や地域を単位に形成される「国中の一揆」と、門徒組織を単位とする本願寺派門徒一揆という組織原則を異にする二つの一揆から構成されるようになった。しかし鑓講の具体的なあり方をみると、足羽郡東郷安原村  の鑓講と記されているように、村を単位とする一揆と分離してはいなかったものと思われる。「朝倉始末記」によれば、一揆勢に与えられたのは国中年貢の半分免除だけであり、知行を望む大坊主(異本ではたんに「坊主」)に対して本願寺は門徒の助力をもって賄えと指令したので、大坊主(坊主)たちは武士・百姓を弟子(門徒)とし、それぞれ配下としたという。本願寺の一家衆として一揆の指導者の一人であった専修寺賢会の門徒についてみると、「当寺坊主衆」と称される坊主が何人か知られるので、そうした坊主衆の抱えていた門徒が広い意味で専修寺の門徒とされたのであろう(勝授寺文書 資4)。また「当寺坊主衆」の中には、願行・玄順のように、いくつかの村を含む「番」の門徒に対する支配権を認められている坊主もいた。彼等は専修寺坊主衆とされた後も、道場坊主として一揆蜂起の時に勢力下に置いていた村々の門徒に対する支配権を認められていたのであろう。また一家衆・大坊主には所領が与えられた。専修寺賢会は福井平野の川北(九頭竜川以北)・川西(九頭竜川以西)の村々から代物として銭や絹綿を徴収している(同前)。



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