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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第一節 織田信長と一向一揆
     二 一向一揆の越前支配
      一揆の組織
 本願寺は派遣した坊官や越前本願寺派大坊主を通じて、蜂起した一揆に対して早くから統制を試みていた。彼等坊官や大坊主の一揆に対する軍事指揮権は、二月末の平泉寺攻撃の時には成立しているが、この時には大敗しており、平泉寺を滅ぼしたのが七山家一揆勢の自発的行動であったように、一揆の自立性は強く、本願寺の統制は強いものではなかった。一揆は杣山・真柄・織田荘・志比荘・河口荘などの中世の荘郷を単位としているものと、河北・大野・北袋などのように荘郷よりやや広い地域を単位として構成されているものがみられる。しかしいずれの場合でも一揆はその内部においては惣代を指導者とする村規模の結合があった。一揆鎮圧後の天正三年十二月に本願寺派から高田派に転宗することを誓った大野郡芦見川流域の皿谷村など七か村の誓約書は、各村の惣代が連名で提出している(稱名寺文書 資7)。また同年九月に北庄・石場・木田の一揆が上杉謙信の出馬を求めた書状にみえる、北庄惣老・石場惣老・木田惣老も同様な一揆の単位であったと考えられる(武州文書 資2)。すでに室町期より荘郷のもとで村が形成されつつあったが、朝倉氏時代末には村の指導者として惣代が知られるようになり、村堂を中心とする自立的な集団に成長していた(『通史編2』第三章第五節)。このような村が一揆の基礎単位となって、一三万余人といわれるような大規模な国中一揆が蜂起したのである。
 一揆の指導者としては北袋一揆の島田将監のような武士もみえるが、坂井郡本庄の宗玄、吉田郡河合の八杉木兵衛、同郡志比の林兵衛、丹生郡天下村の川端などは、惣の農民的指導者とみるべきであろう。このうち河合の八杉は、朝倉義景の女子を本願寺教如の室とするために大坂に送り届けた人物であるとされているから、熱心な本願寺門徒であったと推定される。また七山家一揆の指導者は、伊知地の庵室兵衛、坂口才六左衛門、洞の孫右衛門、山下道場の左近太郎・同掃部太郎・同入道道清、岸陰弥次右衛門であるとされており(「朝倉始末記」)、有力農民とならんで道場の名を冠する者や、隠居でその家屋が道場の役割を果たしたとされる庵室がみえているが、彼等も本願寺門徒であったと思われる。一揆の指導者の多くが同時に本願寺門徒であったから、この一揆は本願寺の門徒が起した一向一揆とみなされたのである。
写真5 島田将監居城水無山壇ケ城跡付近

写真5 島田将監居城水無山壇ケ城跡付近

 一揆蜂起時の本願寺門徒の組織がどのようなものであったかは明らかでない。朝倉氏の支配下にあった元亀三年(一五七二)三月に、大野郡司朝倉景鏡は「大野郡之内本願寺道場」、あるいは「大野郡内本願寺門徒中」に鑓持を課したが、最勝寺の道場中については免除している(最勝寺文書 資7)。これによると最勝寺は、郡内のいくつかの道場を支配下に置いており、この道場を通じて最勝寺門徒を掌握していたことが推定される。しかしこの最勝寺は、朝倉氏の本願寺派寺院禁圧策のもとでも在国が許されていた例外的な本願寺派寺院であると考えられており(『通史編2』第四章第五節)、鑓持を免除されたのもそうした事情が考慮されたためであろうから、この例をもって本願寺派寺院が道場を通じてそれぞれの門徒を組織化していたと、一般的に考えることには慎重でなければならない。朝倉氏による禁圧策のもとで、門徒たちは道場を中心に信仰を守り続けたが、最勝寺のような場合を例外として、越前の門徒は特定の越前国内寺院の門徒となることはなく、「本願寺門徒中」として存在したという長い歴史をもっている。このようなありかたは、永禄十二年(一五六九)四月の朝倉氏と本願寺との和睦、それに基づき逃亡していた本願寺派寺院の帰国の後も大きな変化はなかったものと思われる。



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