次いで二月二十八日には一揆勢は大野郡平泉寺と、そこに逃げ込んでいた土橋信鏡に対する攻撃を開始した。このとき一揆軍を率いたのは、本願寺や加賀より一揆軍指導者として派遣されてきた杉浦玄任・下間和泉・若林長門守と、越前の本願寺派有力寺院(大坊主)の本覚寺・専修寺などであり、一揆勢に対する本願寺の軍事指揮権が成立していることを知ることができる。しかしこの攻撃は一揆勢の大敗に終わった。この後しばらく両軍のにらみ合いが続くが、四月十四日に南袋(勝山市域のうち九頭竜川以南の地)・北袋(同九頭竜川以北の地)・七山家(同滝波川上・中流域の地)の一揆勢は、七山家に通じる谷の入口に当たる村岡山に平泉寺勢が城を築くと、「此山中ノ田畠、悉カリ(刈)田トナルベシ、左様ナラバ、山中ノ難儀ナリ」(「朝倉始末記」)という理由から、先手を打って七山家一揆を中心として村岡山に城を築いた。この行動は本願寺派遣の坊官や大坊主の指令によるものではなく、自らの作物を守ろうとする一揆独自の判断で行われたことが注目される。平泉寺や信鏡は村岡山の一揆勢を攻撃したが、予想に反して一揆の抵抗は強く、多くの僧兵が戦死し、さらに本覚寺の率いる支援軍が直接平泉寺を攻撃したため、平泉寺は焼かれて衆徒は壊滅し、信鏡も戦死した。 |