桂田長俊のやり方に不満をもつ富田長繁等の国侍は国の一揆を誘って兵を挙げ、天正二年(一五七四)正月十九日に一乗谷で長俊を討った。長俊と長繁の争いは国支配の主導権をめぐる争いであり、織田信長に対する反抗ではなかった。二月十八日には越前の争いは収まったと京・奈良では噂されている(「尋憲記」)。しかしこれ以前に目付として北庄に配置していた三人衆が一揆の攻撃を受けて退去させられ、また府中近辺で坊主たちが内々に計画していた一揆を、千福氏が正月二十二日以前にからめ取ったことを信長は知っていたから(千福文書 資2)、長繁などの報告をそのまま信じていたとは考えられないが、信長が当時おかれていた軍事情勢からして、即座に出兵するなどの策をとることはできなかった。
越前では正月二十八日に一揆勢は相談して加賀より七里頼周を大将として招き(「朝倉始末記」)、長繁とはたもとを分かつ自立した本願寺の軍事力であることを明確にした。二月に入ると吉田郡河合の八杉を指導者とする一揆が乙部勘解由左衛門を攻撃し、西庄(丹生郡)の一揆が丹生郡三留の朝倉孫六を討ち、河北(坂井郡)の一揆は黒坂与七を攻め滅ぼした。一揆が黒坂一族の首を七里頼周のもとに持参したところ、頼周は自分の命令なしに勝手に武士を殺すことは言語道断であるとして、首持参者を成敗したという(同前)。これは一揆が朝倉氏時代以来の武士支配に抵抗する農民一揆としての性格をもっており、武士も含めて反信長勢力の糾合を図ろうとしていた本願寺の意図と矛盾することを示している。この頃丹生郡末野村立神清右衛門や府中の商人板屋を一揆が「理不尽」に討ち果たしたことを訴えている文書が伝わっているが(山本重信家文書 資5)、これも一揆が本願寺の統制を離れてこれまでの支配層を攻撃した例とみなしうる。 |