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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第一節 織田信長と一向一揆
    一 信長と越前支配
      長俊の滅亡
 天正元年十一月には新知の配分を含めて越前の新しい支配体制が生み出されようとしていたが、それとともに国内における対立も目立ち始めていた。十一月末には織田劒社領と長俊の代官が支配する織田荘料所方とのあいだにも、織田寺社が料所方に負担する用米をめぐって紛争が起っていた(劒神社文書 資5)。また今立郡河俣荘の代官である斎藤・馬場の二人は、長泉寺岩井西泉坊の本知として認められていた兼光名内の抜地一反六〇歩の指出の提出を求めて乱妨に及んだため、西泉坊は長忠という人に訴え、十一月二十六日にこの地を安堵するという裁決を得ている(中道院文書 資5)。指出とは、この場合、この地の持主が新しい領主に年貢負担を行うという一種の同意書を提出することを意味しており、この紛争は新知を与えられた者が年貢収納強化を図ろうとしたため生じたものとみることができる。
 この裁決を下した長忠については不明であるが、朝倉氏時代の一乗谷裁判と同じく訴訟が奏者を通じて評定の場に出され、奉行人が連署(ただし一人は「御暇」とあって花押をしていない)で長忠の裁決を伝えていることからして、長忠は前波(桂田)氏と思われる。「朝倉始末記」によれば、長俊が越前に帰ってきたのは十二月下旬と伝え、また長俊の子として新七郎という者がいたとするから、長俊の留守の間は子の長忠が当主の代行をしていたのであろう。奉行人の一人が「御暇」とあるのは、長俊に随行して上洛していたことを示すものと思われる。このように考えてよいとすれば、長俊の支配組織は一乗谷朝倉氏にならったものであったということができる。
 信長の権威を背景に国内で朝倉氏と同じような地位に立とうとし、新知の配分を差配した長俊に対して、元同輩であった国侍たちは反感を抱くようになっていった。とりわけ、長俊と同じ時に朝倉氏を裏切って信長方となり、十月の北伊勢の合戦で与力の毛屋猪介が奮戦して手柄を挙げていた富田長繁は、長俊が信長に長繁や与力の給地を削るよう求めたことを聞いて長俊を討つことを決意し、国中の一揆を味方にすべく働きかけを始めたとされる(「朝倉始末記」)。翌天正二年正月十八日に吉田郡志比荘の一揆が蜂起したのを合図に、翌十九日には長繁を先頭とする坂井郡・吉田郡・足羽郡の一揆三万三〇〇〇人が長俊を討つべく一乗谷に押し寄せ、長俊はここに一族ともに戦死した。一揆勢は二十一日には北庄三人衆を攻めたが、安居景健・織田(元朝倉)景胤の仲裁によって三人衆は北庄の守りを捨てて上洛した。
 この事件が奈良に伝わったのは正月二十七日で、長俊に専横の振舞があったので国の諸侍たちが殺害したのであり、信長に背くものではないとされており、次いで二月十八日には富田長繁が信長のもとに出頭して礼をつくし、越前の国侍たちも信長に人質を出したので越前の騒動は収まったとみられていた(「尋憲記」)。しかしこの情報は正確ではなかった。すでにこの頃越前の一揆は長繁攻撃を開始していたのである。



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