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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第一節 織田信長と一向一揆
    一 信長と越前支配
      守護代前波長俊の支配
 前波長俊がその支配を行ったのは天正元年九月から翌年正月末までの短期間であった。長俊は「守護代」とされているが、朝倉氏時代の支配体制を継承することを基本としていた信長の越前支配のもとでは、朝倉氏時代に郡司の支配下に置かれていた敦賀郡と大野郡には支配権が及びにくかった。敦賀郡についてはよくわからないが、大野郡においては九月末に元郡司であった朝倉景鏡が大野郡から美濃郡上への荷物運送を禁止しているから(小嶋吉右衛門家文書 資7)、景鏡の大野郡支配が認められていたことがわかる。長俊の支配権としては、信長朱印によって確認された本知における給人・百姓の年貢についての抵抗を排除すること(滝谷寺文書 資4)、寺社の末寺・門徒支配を安堵し(法雲寺文書 資5)、末寺領からの本寺への上分米納入について本寺と末寺の交渉を仲介し、裁定することなどが知られる(大滝神社文書 資6)。また滝谷寺領からは朝倉氏時代と同じく反銭や北庄橋の役銭が徴収されているが(滝谷寺文書 資4)、これらの徴収の多くは長俊の管轄するところであったろう。また朝倉氏時代には朝倉氏の直接支配地であった今立郡水落は、小嶋・飯田・波多野の三人が代官として支配しているが、これも長俊の管轄下にあったものと思われる(瓜生守邦家文書 資5)。
写真1 前波長俊書状

写真1 前波長俊書状

 長俊の支配権のうちで最も重要であったのは、膨大な量に達していたと推定される朝倉義景の直接支配地と、信長の敵対者から没収した所領に対する管理権であったと思われる。九月十六日に長俊は、増長新十郎知行分の代官職と若林山奉行に帰山・服部の両人を任じているから(野村家文書 資2)、没収所領の代官任命が長俊によってなされていることを知ることができる。
 ところで先に信長の本知安堵の朱印状がみられるのは天正元年十月八日までであることを述べた。したがって信長による本知安堵はこの頃には一段落したものと考えられる。そうすると次に問題となるのは、長俊が管理している朝倉氏当主および家臣の没収旧領地を、信長家臣となった国侍などに新知として配分することであったと判断される。長俊敗死のあと国を支配した一向一揆を鎮圧した信長は、天正三年十一月二十五日に越前国侍の赤座小法師に対し「越前国新知分の事、桂田播磨(長俊)書出の如く宛行い訖」と述べており(古案 資2)、新知は長俊の提出した注進文書に基づいて国侍に配分されたのである。これと関連して天正二年正月六日に信長が幸若舞の幸若八郎九郎に越前国において米一〇〇石を与え、詳しいことは長俊が申すであろうと記していることも注目され(桃井安宅氏所蔵文書)、これも新知の配分が長俊の差配によって行われていたことを示すものと思われる。「朝倉始末記」によれば、天正元年十一月の信長上洛のとき越前の国侍も上洛して礼を述べたとある。このとき信長は朝倉景鏡に土橋の姓を、朝倉景健に安居の姓を、前波長俊に桂田の姓を与え、景鏡(信鏡と改名したのもこの時か)と景健には本領を安堵し、長俊には義景遺領と信長に敵対した朝倉氏家臣の旧領を給与し、そのほか朝倉氏旧臣の魚住景固に丹生郡を支配させたという。これに対し長俊は、膨大な礼物を信長に献上したと伝えるが、十一月二十三日に信長が開いた茶会において、長俊が献上した馬が津田宗及に与えられていることをみると(「津田宗及茶湯日記」)、長俊等の上洛と礼物献上は事実としてよいと思われる。おそらくこの時に長俊の意見を参考にしながら、国侍への新知配分が決められたのであろう。長俊はこの席で、府中を領する富田長繁とその与力である毛屋・増井の知行分が多すぎることを信長に訴えたとされているが、これも新知配分において長俊に発言権があったことを示している。



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