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 第二章 藩制の成立
   第三節 藩政機構と家臣団
    一 家臣団の編成
      知行制度
 大名が家臣に知行を与えるには大きく二つの方法があった。一つは実際に知行地(給知)を与えるものでこれを地方知行制、もらった家臣を給人と称し、給人はここから年貢米を収納した。他の一つは年貢米をいったん藩庫に納め、改めて現米を支給するものでこれを俸禄制といっている。初期には地方知行制をとる藩が多かったが、大大名のほかは徐々に俸禄制に移行したとされている。
 若越の諸藩では、小浜藩が先述のように京極氏時代に地方知行制であったが、酒井氏は入封を機に俸禄制に切り替えている。越前では福井藩が地方知行制であったほかは、俸禄制をとったようである。写真65・66・67でもうかがえるように、同じ知行宛行状でも地方知行制と俸禄制では、様式にも違いが認められる。また写真ではわかりにくいが、料紙の大きさもかなり異なっているのである。このほか松岡藩松平昌勝の宛行状には、「於領内百石宛行之畢、全可収納者也」(蜷川文書「越前史料」)とあるのみである。ただ木本藩の時、松平直良に出仕した長谷部左近(秀康の重臣采女の孫)に「開発村我等知行分」の年貢皆済状がみられるが(土蔵市右衛門家文書 資7)、はっきりしたことはわからない。あるいは過渡的なものであろうか。
写真65 結城秀康知行宛行状

写真65 結城秀康知行宛行状



写真66 酒井忠勝知行宛行状

写真66 酒井忠勝知行宛行状



写真67 小笠原信房知行宛行状

写真67 小笠原信房知行宛行状

 秀康は慶長六年九月九日最初の知行割を行った。この時の特徴は、多賀谷左近への三万石の知行宛行状(多賀谷繁太郎家文書)でみると、村の肩書に郡名を用いず丸岡領とか三国領としていること、一村すべて与えられていること、ある程度のまとまりはもつが一円的な集中性はもたないことなどである。同じ日付の山川朝貞への宛行状でも同じことがいえる(山川修司家文書)。ところが左近は、同年十一月十二日大野領や西方領(丹生郡)も含む八村に二〇〇〇石加増されるが、一村全部与えられたのは三村になっている。他の五村には左近以外にも与えられたと考えられるが、このように一村に複数の給人が置かれることを相給という。
 この方針は忠直にも引き継がれるとともにいっそう進んだとみられ、大坂の陣の戦功による荻田主馬の加増分五〇八五石は、四領九村に散在していることが知られる(武州文書)。また第一節第三項で触れた元和六年の「大坂御普請増人足割帳」では、二三村中一一村が相給であった。忠昌になると、領名に代えて郡名を用いるとともに相給も増えている。のちには知行一〇〇〇石について一村のみ丸ごと与え(丸村・丸給知)、他はすべて相給とされ、一村に複数の給人が付けられるのがごく普通のことになった。
 他方これを百姓の側からみると、一人の百姓の持高が複数の給人の知行地に分散したから、年貢納入などに手数を要することになり、百姓の諸要求をまとまりにくくもさせた。そのうえ知行地は藩主の代替りごとに割り替えられ、加増や分知もあったから、そのつど知行地の構成も変わったのである。なお、給人からみて、田畑のみ知行地にあり、屋敷は他の給人に属している百姓を「越高百姓」といっている(酒井康家文書)。
 このようなあり方を分散相給形態といい、給人の知行地に対する諸権限を制限し、かつ百姓の諸要求をまとまりにくくするためにとられた方法で、江戸時代の特徴とされている。割替えの度ごとに知行地が変わり、知行地百姓を決めるのに鬮取が行われることもあったから(明石家文書 資3、彦坂重雄家文書、島田豊家文書)、たしかに給人と知行地の関係が希薄になる傾向がみられた。また給人が相給人に規定されて無理な支配がしにくくなった反面、百姓は相給並の支配を求めることによって諸要求の正当性の根拠ともしたのである。
 なお、慶長八年本多富正が陪臣へ村付けをもつ宛行状を発給し(本多家・佐久間家文書 資6)、「柿原知行帳」(多賀谷繁太郎家文書)でも陪臣への村付けがみられる。また両家では、前掲表38の人々を実際に「知行取」と称してもいる。しかしこのことをもって、万石以上の給人がさらに地方知行制をとっていたとみるべきでなく、おそらく名目上のことと思われる。城を預かるほどの重臣がこのような形をとるのは他藩でもみられることで、外見上藩の制度を模倣することによって、陪臣への給禄に威厳をもたせようとしたのであろう。
 知行取以下には現米や金銀が与えられた。一人一日五合を一人扶持といい、これを一年分給されたのが扶持米取である。このほか下級の者には、数俵の米や数両の金が与えられ、これらを俵取とか金銀給といっている。先にも触れたようにこれらは随分多くいたのである。
 最後に家督相続に触れておこう。藩士の相続の仕方には、世禄制といって父と同じ知行を与えられる場合と、世減制と呼ばれてやや減らして与えられる方法があった。福井藩は世禄制とみてよさそうである。小浜藩は世減制であり、相続に当たって父の知行高より二、三割削減して与えられたが、その後の勤めぶりによっては随時加増することも行われている(『小浜市史』通史編上巻)。



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