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 第二章 藩制の成立
   第三節 藩政機構と家臣団
    一 家臣団の編成
      給人と知行地の関係
 給人の知行地に対する権限は時期によって違い、知行高によっても差がみられた。秀康と忠昌は新しく越前に封じられた大名であったから、家臣団も初めは在地との関係をもたなかった。それでも初期からかなり強い権限が認められる。秀康の宛行直後には、大身の者が自らの知行所内で寺社領を寄進し、諸役を免許していることが知られ(瑞祥寺文書・洞雲寺文書 資7、山県昭彦家文書)、大坂の陣や普請役に知行地から人夫を徴したこともすでに述べたとおりである。
 給人が知行地に法度を布達していることも注目される。七〇五〇石の知行取芦田賢詮は、家督を継いだ翌年の天和三年(一六八三)、知行地の一つ今立郡長谷村の庄屋に対し、陪臣の名で八か条の訓戒を垂れることがあった(蓑輪家文書)。それには、藩の法度を守るよう百姓に申し聞かすこと、百姓に対して依怙贔屓をしてはならないこと、百姓からの音信を受け取らないこと、そしてこれらのことは手代にも申し付けるよう、総じて知行地の管理に手抜かりがあってはならないとある。
 年貢率(免)を決めたのも給人であった。酒井重成は三〇か村にわたって七七五〇石の知行地を与えられていたが、明暦三年(一六五七)十一月「酉年村々免定」(酒井康家文書)によると、実際に検見を行ったうえで年貢率を決定している。しかもこのうちの数村については、相給より高率であったことのほか、倒百姓が出たとか、百姓が草臥たとかの理由で減免しているのである。このことは、同じ村でも給人によって免に高低があったことをうかがわせるとともに、相給人に規定されて勝手なことができなくなっていることをも示している。さらに、坂井郡長橋浦が海上で拾った流木が銀一貫目になったとして免を九分上げ、年貢未進者のほか農作業や夫役に役立たない者を「追放」し、山の手入れをよくした者に褒美として米一俵与え、手入れの悪い者からは過料を取るともみえる。相給並を要求する百姓に押されながらも、なお独自の支配を行っていたのである。
 しかし、先述の寛文八年の借知によって、給人の年貢徴収権は後退する。すなわち表39のように、七年間の平均年貢率によって知行地の免を決め、それを上回る分を藩庫へ「御借り成られる」(「家譜」)こととされたのである。これは実際に実施されており、例えば六〇〇〇石の松平主馬助は、七年間の平均が三割九分三厘八毛一糸二であったので、取米を三割六分の二一六〇石と勘定所から指示されている(松平千秋家文書)。さらに同十二年、借銀調査によって藩に肩代わりされた給人は、例えば平均が四割四厘四毛五糸五で、八年に三割七分にされた八木平六が、十二年には「拝借銀相済み候迄」三割とされたごとく(八木家文書)、借銀完済まで低く押さえられることになった。
表39 福井藩寛文8年(1668)の借知

表39 福井藩寛文8年(1668)の借知
    注1 厘の位は5捨6入とした.
    注2 「家譜」により作成.

 延宝五年三月「当七月・面々給地収納致し」と知行地が戻されたが、同時に四分の借知も実施され、かつ給人のうち「手前ニ而所務仕り難き面々ハ御相談の上ニ而御蔵支配」にすることまで決められた(「家譜」)。もはや知行地を維持できない者すらいることも予想されているのである。
 しかし他方、これを機会に年貢率を高くした給人もみられる。一三〇〇石の中川六左衛門は、延宝三年から知行地である大野郡橋爪村(丸給知)の免を決めることがあった。貞享三年の半知によって幕府領となった橋爪村と蓑道村の惣百姓は、それまで「福居御給  人渡り」であったので「免合高ク」、そのため「段々百性共困窮仕」ると、新任の幕府代官に訴えるところがあった(経岩治郎兵衛家文書 資7)。知行地が戻されたあともなお、高免を賦課した給人がいたことを示している。



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