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 第二章 藩制の成立
   第三節 藩政機構と家臣団
     二 諸藩の藩政機構
      臨戦体制
 福井藩と小浜藩が成立したのは関ケ原の戦い直後であったが、戦国以来の戦闘が終結したわけではなかった。結城秀康や京極高次の入封自体がそのことを示し、かつ築城や城下町の建設にさいして軍事的側面を決してなおざりにしていないこと、福井藩・小浜藩ともに重臣を藩境や領内の要所に配置していることなどが、そのことをよく物語っている。このようなことはどこの藩でもみられたことで、いわゆる「元和偃武」以後においても、改易大名の城受取りや島原の乱にみられるように、臨戦体制は常に維持されていたのである。
 例えば酒井忠勝は、寛永十一年(一六三四)「武具の儀共分限にしたかひ急度相嗜む」ことを命じ、慶安四年(一六五一)には若狭の外へ人数を出す時のための用意を指示することがあった(酒井家文書)。明暦二年(一六五六)には「自然」すなわち万一の時のために「心持之覚」を定め、家中を六組に分け、敦賀口と佐柿口・熊川口・高浜口に一組ずつ派遣し、残る二組で小浜城を守衛させることにしている(酒井家文書 資9)。寛文六年(一六六六)丹後宮津城の受取りを予定された忠直は、「今般高名仕る輩はその働きに応じ急度恩賞重かるべし」で始まる「条々」や、「一戦に及ぶ刻ハ諸軍馬より下り相働くべし」「一番螺ニ食事をしたため、二番螺ニ武具を着し、三番螺ニ人数を出すべし」などという文言をもつ「定」などの軍令を出している(酒井家文書)。
 このように家臣団は、事に臨めば何時でも戦闘体制に移ることができるように編成されていた。同時に、この家臣団が藩の行政を担当し、鉄砲をはじめとする強大な武力を背景にして、厳しい封建支配に当たっていたのである。



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