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 第二章 藩制の成立
   第三節 藩政機構と家臣団
     二 諸藩の藩政機構
      番方の編制
 藩政機構は、もっぱら軍事を担当する番方と、一般の行政に当たる役方に大きく分けられる。両者は初めから厳密に区分されていたわけではないが、徐々に分化し、現実に戦争が起らなかったこともあって、政務に通じた役方が藩政の主導権を握るようになった。番方はいくつかの組に編制されて組頭や番頭の統率下に置かれ、出処進退などすべて頭を通して行われたのである。役方は後に述べるとして、まず福井藩の番方からみておこう。
 秀康の給帳によると、藩士が布衣衆・御使番衆・御鉄砲頭衆・御馬廻衆・御番与衆・役人衆などに分けられている。このうち戦時に中核となる馬廻組は五組からなり、それぞれ一二人から一六人、知行は一〇〇石から一五〇〇石である。六組に編制された番組は、四組が二五人、あとの二組が二八人と二九人からなり、知行は一〇〇石から一五〇〇石で馬廻と変わらないが、平均知行高は馬廻より低い。なお、本多富正以下一八人の上級家臣に「御普請与頭」とある。これは幕府普請役のとき組頭を勤めることを意味し、城郭や屋敷の普請を担当したわけではない。
 実際の出陣についてみると、慶長十九年(一六一四)大坂冬の陣の時、「御備組」として一番から一一番まで編制され、そのうち九番が忠直の「御旗本惣馬廻」、残りが二人から一一人の知行取からなり、雑兵を含めて惣人数二万余という。翌元和元年(一六一五)の夏の陣では、「御備組」「御旗本先」「跡備」に分かれているが、跡備を除いて数組で編制されている。このうち本多富正や成重が率いる御備組一番備だけでも知行取五人、それに付属する者が与力を除いて足軽だけで七〇〇人、加えて馬上三〇〇余騎と足軽五〇〇人で編制されているのである。また寛永十一年忠昌の上洛に当たっては、鉄砲組だけで四〇〇人にのぼった(「家譜」)。
 この軍団を家中侍のみで賄いきれるものではなく、給人は知行地の百姓の中から頑健な者を選んで徴発したのである。これを陣夫役というが、主要な働き手をもっていかれるわけだから、農作業などにも影響するところが少なくなく、百姓にとって大きな負担になった。陣夫は直接戦闘には参加しなかったとみられるが、武器弾薬や兵糧の補給などに従事させられたのである。
 福井藩の貞享二年(一六八五)頃の番方として、大番組が六人で知行七〇〇石から一五〇〇石、旗奉行が四人で三〇〇石から五〇〇石、物頭番頭二人が二〇〇石と五〇〇石などのほか、先物頭・徒頭・水主頭・纏奉行・長柄奉行・玉薬奉行・武具奉行などがみられる。しかしすでに、席次(格)・知行高ともに、役方が優位に立っていることがうかがわれる(「諸役年表」松平文庫)。



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