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 第二章 藩制の成立
   第三節 藩政機構と家臣団
     二 諸藩の藩政機構
      福井藩の職制
 藩の職制は、もともと大名の家政組織に始まり、戦いを繰り返すなかでまず番方が固まってゆき、やがて農民支配を中心とする役方の機構が出来上がっていった。「庄屋仕立て」という言葉もあるように、初めは簡単なものであったが、大名として成長するにつれて大きくなりかつ複雑になった。だいたい十七世紀を通じて整ったとされるが、その後も藩政改革などによって手直しされることも多く固定的なものではなかった。また職名や定員などを除くと、藩による違いもほとんどなく役割もほぼ同じであるといってよい。そのためここでも、福井藩の「諸役年表」を中心にして、貞享二年のものを紹介するにとどめる。この史料は同年以降幕末までの諸役職と役人名を書き上げたもので、半知以前のことをまとまって知ることのできる唯一のものといってよい。なお直接農民支配にかかわるものは後に回し、そのほかのものについて述べることにする。以下人数は貞享二年の現員であり、知行高は「松平綱昌給帳」(松平文庫)によっている(後掲表46)。
写真68 諸役年表

写真68 諸役年表

 家臣団の頂点を占め藩政を統括したのが家老であり、加判を含めて五人置かれているが、知行高には差があって一〇〇〇石から九〇〇〇石である。秀康以来本多富正や今村盛次など数人の重臣を年寄といい、軍事の中心でもあったが、十七世紀の中頃から家老と唱えるようになったようである。家老と同格のものに城代一人四五五〇石のほか、正徳(一七一一〜一六)頃から用人、延享四年(一七四七)からは中老と呼称が変わるが、この時は若年のゆえもあって評定所の「御用見習」といわれた者が六〇〇石と一〇〇〇石の二人あり、いわば家老候補生といえよう。やがてこれらの家が、家老に就任しうる家格である「高知」として固定される。この時府中本多長員(富正の孫)が含まれていないのは、光通の時まで家老であった父の昌長が、その後直接には藩政の実務に携わることがなくなったからである。
 城下町の支配に当たるものを寺社町奉行といい、寺社方の支配も兼ねていた。四〇〇石と五〇〇石の二人が任じられている。格式は高く、役方では後述する金津奉行の次に位置付けられた。秀康の給帳には「町奉行」として、一七二〇石の岡部伊予と一四〇〇石の朝日丹波の名がみえるが、いまのところ、確かな史料で町奉行の名称を示すものは、忠直の代を含めても知ることができない。町奉行は城下町にのみ置かれ、町場を形成していたとみられる三国や金津には設けられることがなかった。小浜藩では酒井氏時代に、小浜のほか敦賀と三方郡佐柿・遠敷郡熊川・大飯郡高浜にも置かれており、この点が福井藩との最も大きな違いである(『小浜市史』通史編上巻)。
 財政の責任者が「奉行」である。他藩では普通勘定奉行といっていることが多いが、福井藩ではたんに奉行とのみ称している。そのため紛らわしさを避けるために、以下この役職のみ括弧を付けて記し、他の奉行と区別することにする。三人置かれており二〇〇石から三〇〇石である。「奉行」の下役には、勘定奉行が二人いて各二〇〇石、金奉行六人は賄方と貸方に分かれて一〇〇石から二〇〇石、表納戸は払方と仕立方で各一〇〇石の三人である。その他切米取以下の者が勤めた土蔵番三人があり、藩札発行時のみ置かれる札所奉行二人もみられる。
 城郭や屋敷の維持管理に当たり、道橋の補修などを任務とする普請奉行は二人で、三五〇石と三〇〇石、作事奉行二人が一五〇石と三〇〇石、道奉行一人一五〇石などがあり、このほか芝原上水を管理する上水奉行一人(知行高不明)、切米取以下の掃除奉行一人などがあった。
 このほか君側に仕えるものとして、書院番頭が四人おり一人が二一〇〇石(他は不明)、延享四年に用人と改称される奏者番が三人いるが知行高はわからない。側役は、小姓頭が三人で一人が五〇〇石、取次二人で一人が二〇〇石、使番一八人は二〇〇石から九〇〇石、二〇〇石の右筆受込一人とその下に右筆が七人(切米取以下)などである。秀康の給帳にみえる本阿弥光悦などの遊芸の師匠や、武術の師範、医師などもこれに含まれる。また上級家臣の子弟が小姓として召し出されることもみられた。
 先に述べた小浜藩の例でわかるように、役人には江戸や京都の藩邸に詰める者もいた。貞享二年の福井藩についてははっきりしないが、江戸には江戸聞番二人が三〇〇石、鳥越など三屋敷に一〇〇石ほどの江戸屋敷奉行が各一人みられる。京都で「上方御用」を承る京都留守居は一人で二〇〇石であった。これらは幕府役人や他藩の家臣と密接に連絡を取り合い、江戸や上方の情報をいち早く国元へ伝えるうえで重要な役割を果したが、知行高は国元よりやや低く押さえられている。江戸藩邸には藩主正室や嫡子が住まったから、それぞれにお付きの者もおり、先述のように多数の奥女中もいたが、この奥女中だけでも一五以上の職名があったようである(「松平斉承給帳」松平文庫)。



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