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 第二章 藩制の成立
   第三節 藩政機構と家臣団
    一 家臣団の編成
      軍役と陪臣
 軍役とは武士の主君に対する軍事的負担を指すが、戦闘への出陣のみでなく、普請役や城受取りのほか参勤交代なども含まれる。幕府は元和二年(一六一六)軍役規定を定めたが、これが寛永十年やや軽減されて、こののち幕末における西洋式軍制導入までの基準とされた。これによって大名は、領知高にふさわしい家臣団を抱え、常に軍備を整えておかねばならなくなった。大名の軍役は家臣団に転嫁されたから、藩士たちもその知行高に応じて馬を飼い、武器を備え、家臣(陪臣)を養うことを義務付けられたのである。
 松平忠昌は入封した寛永元年七月、家中への「掟」で、諸侍が弓や鉄砲の鍛練を怠らないことと、知行二〇〇石以上の者の馬所持などを令したあと、八月には「御軍法役付之事」(「家譜」)を定めている。表37はこれと幕府元和令を比較したもので、石高は福井藩を基準とした。実際には一〇〇〇石台以下の規定もあったに違いないが、「家譜」には「以下記録摩滅致し詳らかならず」とある。弓と馬上が同じ、長柄は福井藩が少なく、旗と最も重要な武器である鉄砲は福井藩が多い。負担率は、旗と弓は同じであるが、長柄がおおむね上位者に重く、馬上と鉄砲は五〇〇〇石から八〇〇〇石台が高くなっている。これらは常備のもので、戦闘の時は適宜増員することもあったようである。

表37 福井藩と幕府軍役の比較

表37 福井藩と幕府軍役の比較
          注) A:福井藩(「家譜」),B:幕府元和令(『徳川禁令考』),C:幕府寛永令(『徳川
             実紀』),1000石23人を基準に100石2人で計算.

 この点を小浜藩でみると、「常時人之員数」すなわち常軍役と、軍事動員に当たっての「軍役之人数」すなわち増軍役が定められている。これと幕府寛永令を比較すると、持人(供連れ)と槍・馬上は同じであるが、鉄砲と弓は小浜藩が重く、とくに増軍役はかなり重くなっている。なお、持人は下級家臣ほど重く、鉄砲や弓は上位者に重い規定となっていた(『小浜市史』通史編上巻)。
 このような軍役を負担するために、家臣もまた多くの陪臣を抱えていた。福井藩の重臣についてみると表38のようになる。多賀谷氏の上位四人の「老中」のうち三人は、二〇〇石ないし三〇〇石が「公儀外字下さる」とあって秀康の給帳にもその名が載り、吉田郡花谷を賜った山川朝貞(前掲表13)にも同じような例がみられる。このほか多賀谷氏には「歩行之者」四〇人余、「切米取并足軽等数多くこれ有る」(多賀谷繁太郎家文書)とあり、本多氏にも切米取などが一一二人、「御足軽以下」が五六二人、女中も五九人みられる(「貞享三丙寅年御礼之次第御半減之一件」武生市立図書館所蔵文書)。

表38 福井藩の陪臣

表38 福井藩の陪臣
                 注1 A:慶長17年「柿原知行帳」,B:「柿原給帳」(いずれも
                    多賀谷家文書)による.
                 注2 C:「御半地(知)之節御家中書付」(武生市立図書館所
                    蔵文書)により作成.ただし,50俵の4人を除く.

 多賀谷氏の比率が高いのは、近世初期であることの反映とみられる。諸藩では家中財政の悪化に対処するために、陪臣や馬を減らしている例があり、小浜藩では寛永十七年馬扶持を与えたほか、寛文七年(一六六七)下人の召抱えを減らすことを許し(『小浜市史』通史編上巻)、福井藩でも延宝七年人馬の減少を認めているので(「家譜」)、本多氏が少ないのはこれらのことの反映かもしれない。
 陪臣は戦闘に備えていただけでなく、平時には主家の家政や知行所の支配に当たっていた。本多家でみるとまず家老があり、そのもとで家政を担当する者に用人や膳番・納戸方・台所目付など、知行所支配に携わる者に町奉行・郡奉行・山奉行・目付などがあった。また陪臣は府中だけでなく、留守居などが福井や江戸の本多屋敷にも置かれていた。



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