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『福井県史』通史編2 中世
家臣団編成 逸見一族 前述したように、応仁の乱における京都内外の合戦に武田勢の主要な一角を占めていたのは逸見氏であった。...ら彼らは逸見氏の惣領家と目されるが、享禄元年(一五二八)十一月十一日の武田元光官途状で、元光が逸見弾正忠(昌経と推定され...localhost/fukui/07/kenshi/T2/T2-4-01-03-02-02.htm -
『福井県史』通史編2 中世
家司大沢重胤は「武田大膳大夫(信賢)、同治部少輔(国信)、逸見以下数千人、如意寺嶽山陣候也」と記している(『山科家礼記』...のばれる。 この年七月十九日、西軍大内政弘の軍が信賢の部将逸見弾正忠繁経を大将とする武田勢の陣所山科の勧修寺を攻撃した。...localhost/fukui/07/kenshi/T2/T2-4-01-03-02-01.htm -
図説福井県史 中世17 戦国大名武田氏(1)
小浜市 雲外寺蔵 ▲逸見昌経木像 大飯郡高浜を本拠とする逸見氏は、武田氏の 有力家臣であり、武田氏滅亡後は高浜城主と...れ、勢力を弱めることになります。家臣のなかでも大飯郡高浜の逸見一族は、16世紀には武田氏が侵入した丹後の勢力を味方として...localhost/fukui/07/zusetsu/B17/B171.htm -
『福井県史』通史編2 中世
武田氏による領国支配のもとで遠敷郡がその中心とされたのに対して、西の大飯郡高浜には逸見氏が、東の三方郡佐柿には粟屋氏が、それぞれ隣国への防備の役...直・粟屋牢人衆らの反乱を鎮めると、同二十三年に信豊は高浜の逸見昌経や和田の粟屋氏ら大飯郡の武士たちを丹後・丹波へ派遣し、...localhost/fukui/07/kenshi/T2/T2-4-01-04-02-01.htm -
『福井県史』通史編3 近世一
天正九年四月十六日に高浜城主逸見昌経が病死した。丹波国において信長と敵対していた波多野兄弟...とする長秀の重臣としてこれまで若狭の支配に当たっていたが、逸見氏没後の大飯郡を支配するとともに、若狭の目付として信長や長...localhost/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-02-02-03-04.htm -
『福井県史』通史編2 中世
城主の逸見氏は若狭武田氏の一門衆として重きをなしたが、永正十四年・天...分が多く、城郭としては完成していない。これは永禄年間の城主逸見昌経が同四年に丹波守護代松永長頼(蓬雲軒宗勝)らと結んで守...localhost/fukui/07/kenshi/T2/T2-5-01-03-01-17.htm -
『福井県史』通史編3 近世一
の蔵宿へ峰山藩の蔵米および家中米三四三九俵が送られている(逸見勘兵衛家文書)。ここにみえる木崎については「承応の頃羽州新...今津送り、一〇九二俵余が小払米として駄賃などに充てられた(逸見勘兵衛家文書)。『稚狭考』には「丹後宮津に奥平家在しましけ...localhost/fukui/07/kenshi/T3/T3-4-01-02-02-03.htm -
『福井県史』通史編2 中世
単独で奉書を出している者は一般には守護代とみなされ、実際逸見真正はその可能性も小さくないが、粟屋右京亮(のち越中守)繁...た彼の地位をさすのであろう。このあと彼の地位を継承したのが逸見繁経であったことを示唆する史料はあるが(ア函二一五)、確証はない。...localhost/fukui/07/kenshi/T2/T2-3-01-02-05-01.htm -
『福井県史』通史編5 近現代一
忠宗(西津村)、井関滝谷(雲浜村)、岡本卯兵衛(瓜生村)、逸見勘兵衛(熊川村)の七か村の村長、儀峨秀霊(雲浜村)、倉谷善...右衛門(内外海村)、笠原次郎(西津村)らの郡会議員、逸見 (熊川村)、田中秀蔵(野木村)、宇野貞治郎(鳥羽村)が名を連ね...localhost/fukui/07/kenshi/T5/T5-2-01-02-02-06.htm -
『福井県史』通史編2 中世
若干の例を拾うと、文明二年(一四七〇)十二月、逸見宗見が遠敷郡玉置荘一分方代官職を競望し、直務支配しようとす...したという(同前)。また先にもふれたが、同十五年五月には、逸見三郎国清が醍醐寺妙法院に対して亡父駿河入道宗見の用立てた本...localhost/fukui/07/kenshi/T2/T2-4-01-03-04-01.htm