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第五章 中世後期の経済と都市
   第三節 城下町の形成
    一 越前・若狭の山城
      若狭の山城 砕導山城
 若狭の西域、高浜町の中央部に位置する。佐岐治神社の裏山一帯、東西に約一キロメートル、南北約六五〇メートルの範囲に遺構はひろがる。城の規模は現認では福井県最大である。しかし城の造りは一部を除いてかなり散漫で、急場しのぎにつくられた臨時の城との見方もできる。完全な城造りをするほど余裕がなかったということであろう。城主の逸見氏は若狭武田氏の一門衆として重きをなしたが、永正十四年・天文七年・永禄四年・同九年と四回も反乱をおこしており、特に永禄四年の反乱のさい拠点となったのが当城である。
図65 砕導山城跡要図

図65 砕導山城跡要図

 城は西側の砕導山(標高一四二・六メートル)を中心とする部分、中央の千丈岳(標高一二〇・三メートル)に主郭を置く部分、東の天王山(標高七二・五メートル)を主にして枝張りをみせる部分で構成され、北からみて逆三角形を形成するかたちで三山全体が要塞となっている。
 砕導山では最高所に主郭を配し、北東に延びる陵線上に断続して四郭をつくる。この最先端は神社の西側にあるが、扇形に幅二、三メートルの帯状郭を連続させ、滋賀県の沖島城などにみられる雛壇の形状を示す。中央に位置する千丈岳は丘陵上にやや突出した山頂に主郭を配し、北東と東側尾根筋に階段状の郭をつくり、この間は帯状郭によってつながる。主郭の北側下辺を連絡路が通り、西側と東側には見事な堀切・竪堀がみられる。西側では若狭諸城で最も完備された土橋をつくる。東側では天王山を頂点として北東尾根筋と南側尾根筋に階段状の平場を配置する。この一画は丹後街道への備えと、子生川沿いに大飯町との境である福谷峠への道を意識してつくられたと考えられ、かなり良好なしかも複雑な城郭配置となる。未計測部分もあるが谷間全域に雛壇状遺構がある。こうした技法は越前・若狭ではみられず、滋賀県の城郭によく用いられており、その影響を受けたものとの見方がされる。
 当城はさほど高くない丘陵の集合した山岳を利用してつくられたが、不規則な縄張りと未完成な部分が多く、城郭としては完成していない。これは永禄年間の城主逸見昌経が同四年に丹波守護代松永長頼(蓬雲軒宗勝)らと結んで守護武田義統に抗したとき、八〇〇〇人ともいわれる連合軍を収容するために急遽拡張したことによると考えられる。このため各分散した城郭に統一性がなく、それぞれの縄張りに違いがみられるのであろう。反乱は同年の正月ごろから六月まで続いており、「厳助往年記」は越前朝倉氏の応援一万一千の軍勢が昌経・長頼を攻めたと伝える。「当国御陳之次第」によれば朝倉勢は六月二十七日に高浜を攻略し、昌経・長頼が退散したとみえている。以後どうなったのかは未詳だが、逸見昌経は永禄八年に海岸部の事代に高浜城を造っており、当城は出城として存在したことがうかがえる。しかし天正九年の昌経病死後に、当城は放棄された。
 以上、県内の山城を断片的に述べてきたが、必ずしもとりあげ方は妥当とはいえない。越前でいえば鯖江市の三峰山城、福井市の足羽七城・鷹巣(高須山)城・加賀山城、武生市の妙法寺山城・武衛山城、今立町の大滝城、敦賀市の岡崎城と杉津・河野丸砦・木崎山城・疋田城、若狭では、三方町の三方城・白屋北山城、上中町の安賀里城、小浜市の稲葉山城・ガラガラ城、大飯町の達城・石山城、高浜町の大谷山城など、とりあげたい山城は数多くある。これらは各地域で詳細な調査をして記録されることが望まれる。



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