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 第四章 都市と交通の発達
   第二節 湊町敦賀と小浜
    二 湊町小浜の繁栄
      蔵米
 蔵米は、先述したように越後・宮津・田辺などからのほかにも貞享二年(一六八五)に山形・亀田の蔵米が小浜から熊川を通って登せられたという記録があり、『稚狭考』には、さらに加賀・秋田・津軽・新発田・高田、越前の福井・鯖江、丹波の綾部・福知山、但馬七味、石見浜田、因幡鳥取などの蔵米が記されている。
 元禄十一年(一六九八)の丹後峰山藩の蔵米の史料があり、これらのうちとくに丹後の峰山・宮津・田辺の諸藩からは毎年恒常的に小浜に蔵米が送られた。小浜の蔵宿の木崎・和久屋・佐渡屋・長井から熊川の蔵宿へ峰山藩の蔵米および家中米三四三九俵が送られている(逸見勘兵衛家文書)。ここにみえる木崎については「承応の頃羽州新庄の城米小浜と敦賀に廻り、木崎太郎左衛門法名宗雲蔵宿也」(『拾椎雑話』)とあり、出羽新庄藩の蔵宿でもあったことが知られる。また、元禄十一年宮津蔵米二万九〇五七俵が熊川に届き、うち七二〇〇俵が熊川で売り払われ、二万〇七六四俵余が今津送り、一〇九二俵余が小払米として駄賃などに充てられた(逸見勘兵衛家文書)。『稚狭考』には「丹後宮津に奥平家在しましける時には、九十月より大津に米を昇せ、翌年四五月まて絶す、其米数四万に及ふといへり、享保十七年丹後田辺米三万俵余来る」とあり、しかしこれも「其後如此事なし」とあるように、徐々に減少していったようである。



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