17 戦国大名武田氏(1)
 有力な国人たちの多くが南北朝末期に没落した若狭では、守護武田氏は守護のままでしだいに戦国大名となっていきました。守護の権限を保持していることは、国内に段銭や寺社要米などを課す名目として有利でした。同時に都に近いこともあって、家臣もふくめて都の文人たちとも深い交流があり、政治的にも将軍・管領との結びつきが強く、武田氏は幕府を支え、また支えられていました。その結果として、武田氏は15世紀末以来将軍家や管領細川家の分裂抗争に巻きこまれ、勢力を弱めることになります。家臣のなかでも大飯郡高浜の逸見一族は、16世紀には武田氏が侵入した丹後の勢力を味方としてしばしば叛乱をおこしました。また、粟屋一族を率い経済的にも重要な小浜を支配した粟屋元隆は、周囲の同調者とともに1538年(天文7)に大規模な叛乱をおこし、武田氏を動揺させました。

 若狭三郡では鎌倉期から郡ごとの特質が比較的顕著に知られるのですが、戦国期になると1531年(享禄4)に若狭三郡百姓のそれぞれの代表者が小浜に結集して武田氏から徳政令を勝ちとっているように、庶民による郡単位の地域形成も進展しました。また武田氏家臣も郡ごとに自立した行動を強め、武田氏は分裂のなかで滅亡しました。
 武田元光画像(騎馬図)
 ▲武田元光画像(騎馬図)
 「犬追物検見の図」とも称されている。
             小浜市 発心寺蔵
  潤甫周玉画像
  ▲潤甫周玉画像
  潤甫周玉は小浜栖雲寺の開山で、
  武田元光の兄。周玉は三条西実
  隆から和歌の教えを受け、儒学者
  の清原宣賢を招くなど、文化面で
  活躍した。   小浜市 雲外寺蔵
   逸見昌経木像
   ▲逸見昌経木像
   大飯郡高浜を本拠とする逸見氏は、武田氏の
   有力家臣であり、武田氏滅亡後は高浜城主と
   なった。            高浜町 園松寺蔵
後瀬山と小浜
▲後瀬山と小浜
武田氏の居館は後瀬山麓にあったが、
武田元光のころ後瀬山上に城郭を築いた。

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