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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第二節 政党・政派と選挙
     二 県会の趨勢と総選挙
      第四選挙区
 第二回は前回同様に遠敷郡の藤田孫平と谷沢竜蔵との対決が再現し、また大飯郡も時岡又左衛門を強く推し、三つ巴の選挙が進められた。二月十日に開かれた谷沢側の集会には、会主として芝清五郎(中名田村)、吉岡小兵衛(口名田村)、水口作右衛門(遠敷村)、酒井忠宗(西津村)、井関滝谷(雲浜村)、岡本卯兵衛(瓜生村)、逸見勘兵衛(熊川村)の七か村の村長、儀峨秀霊(雲浜村)、倉谷善右衛門(内外海村)、笠原次郎(西津村)らの郡会議員、逸見外字(熊川村)、田中秀蔵(野木村)、宇野貞治郎(鳥羽村)が名を連ねた。このように中名田・口名田・内外海村の有力者が谷沢派にまわったことは藤田側にとって打撃であり、この動きのなかにはおそらく総選挙前の復県運動をめぐっての反藤田感情が横たわっていたと考えられる。遠敷・西津・雲浜各村の旧士族層を中核に反同志会派の町村に基盤を置く常盤義会(会長井崎清兵衛)は、復県運動の余勢を借りて今回も谷沢を強く推すことになった。谷沢支持には小浜町長の組屋六郎左衛門もかかわっていた(藤田源右衛門家文書)。また井関、儀峨、酒井らによって行われた敦賀郡への進出も復県運動とのつながりに依拠したものと考えられる(岡本卯兵衛家文書)。こうした谷沢優勢の展開のなかで、藤田の後に裁判沙汰となる国富村における投票強要といった強引な運動も行われたのであろう。
 第三回は自由党より時岡と遠敷郡の小畑岩次郎の出馬が予想されたが、党大阪支部幹事西原清東らのあっせんにより次回交代との条件で小畑が断念し、時岡一人に絞られ、自由党を離脱し同志倶楽部に属した藤田との対抗となった(藤田源右衛門家文書)。第四回は前回の契約により時岡側の若干の蠢動があったが自由党より小畑が推され、立憲革新党の藤田との争いとなる。
 第五回は自由党県支部の仲裁も不調に終わり、自由党の前議員小畑と自由党系無所属の元議員時岡との一騎討となる。この選挙に関しては岡本卯兵衛家、村松喜太夫家文書中に多くの書簡が残されており(資11 一―一〇八〜一三九)、それらにより選挙の動向をみると、小畑は前議員としての業績、とくに小浜鉄道設置と嶺南の港湾整備への努力を訴えて四郡の支持を画策し、大飯郡では高浜村、青郷村、加斗村を主として入手、三方郡でも西郷村、田井村、西浦村を中心に勢力を伸ばし、敦賀郡にも若干手を入れた。一方、時岡は出馬を断念した藤田を味方にし、地元の大飯郡では本郷村、和田村、佐分利村をほぼ確保し、三方郡でも八村、十村に勢力を張り、敦賀郡では片山政治郎の動向如何でかなりの集票が期待された。なお、時岡派の資料ではあるが、遠敷郡での時岡、小畑両派の支援基盤を表すものがあり、興味を引く。それによれば、時岡派は三人の県会議員、一八か町村のうち鳥羽・宮川・野木・瓜生・三宅・国富・西津・口名田・中名田・奥名田・知三村の一一か村の村長と郡会議員を味方陣営に入れ、他方、小畑派は松永・今富村長と小浜町長、松永・内外海村選出の郡会議員を入手とある。なおそれ以外の遠敷・内外海・雲浜村長は中立、熊川村長は不明とあるが、おそらく彼らは小畑派に近かったと推測できる。しかし以上の状況も両陣営の切崩しにより三宅村が両方へ票の折半を考えていたり、また小浜町でも支持基盤の分裂がみられ不鮮明な面が存在していた。しかし、大体において郡内での選挙への対応は町村単位で行われ、村長の名で村内有力者の集会がもたれ集票工作が行われていた。かくて両陣営の勢力は伯仲の状態で進められ時岡が競り勝ち、彼は当選後山下倶楽部に所属する。
 第六回は憲政党県支部の調停がまとまらず、山口定省と小畑の同士討ちとなる。そして大飯郡は時岡の辞退により山口を推すことになり、三方郡は小畑に傾き、遠敷・敦賀郡にほぼ両陣営伯仲といった状況で選挙が展開した。



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