目次へ  前ページへ  次ページへ


 第二章 日清・日露戦争と県民
   第二節 政党・政派と選挙
     二 県会の趨勢と総選挙
      第三選挙区
 第二回は杉田、増田らの仲介により永田と武生派の調停が成立し、前回の中島又五郎が辞退し、永田に絞ることができた(杉田定一家文書)。中島は立候補辞退の趣意書を三区の有志者に配付し、そのなかで今回は官民両党の争いゆえ硬派同志の争う時でないとし、自らは東京第三区での出馬を宣言した。しかし選挙中両者の調和は虚構との流言が行われ、永田は杉田に再度選挙民に調和の次第を説明するため彼の遊説を要請する(杉田定一家文書)。永田の運動にも種々の妨害が加えられていた。他方、政府は三区での自由党の間隙を利用し、今立郡の岡研磨を永田に対抗せしめ物的人的援助をあたえた。
 第三回は自由派の亀裂が広がり、今立・南条郡と丹生郡の抗争が再燃し、県支部での永田と今村七平の対立、永田の県支部幹事の辞任説など同派の混迷が伝えられた。結局今立郡の黒田道珍が中立を標榜して出馬し、南条郡が同調、黒田、永田の競争となり、新聞は黒田の優勢を報じた。
 第四回は前回当選の黒田が六月初め自由党に入党し、党の公認を得て再出馬した。なおまた南条郡の今村、京藤甚五郎、松下ら、また前回黒田を推し二十六年の県会議員選挙で久保に敗れた丹生郡の丹尾頼馬も食指を動かしていた。しかし結局最終的に黒田に帰した。一方、黒田公認に不満の永田は反自由党対外硬派の立場をとり、自らが参謀となり久保を立憲革新党の候補者として擁立した。永田・久保の両名は県支部の除名処分の前に脱党し選挙に臨んだ。公明会の野尻、山田が久保陣営で活動した。
 第五回は南越自由党、南越倶楽部を通じて杉田との関係が深かった武生の松下豊吉が、旧姓長谷川に戻り出馬した。種々の意味合いで彼の政界への再出発であった。これに対し三田村甚三郎(山田欽二 二十七年十二月三田村に復姓、二十九年九月甚三郎襲名)らの丹生・南条郡の県会勢力が、進歩党出現後の政況のなかで反自由党として今立郡の西野久右衛門を推せんし、長谷川との間に激戦が展開され長谷川の惜敗となった。西野は第五回総選挙に当選した無所属中、実業派議員四八人により組織された山下倶楽部に所属する。
 第六回はようやく三田村甚三郎が憲政党(進歩党系)より出馬し、前回の西野を破った。ここに数年来、嘱目されてきた進歩党派の代表者としての三田村甚三郎が衆議院に登場したのである。



目次へ  前ページへ  次ページへ