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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第二節 政党・政派と選挙
     二 県会の趨勢と総選挙
      第二選挙区
 杉田定一の選挙区といわれたが、第二回は杉田の独走を阻止するため坂井郡の森田三郎右衛門と吉田郡の吉田助右衛門の連合による対杉田策を政府筋が画策し、また県官・郡吏・警察官による杉田側への干渉が行われた(杉田定一家文書)。
 第三回は県内自由派内の紛糾の余波をうけ、『若越自由新聞』を背景に岡部の蠢動がみられた。また前回の選挙過程で杉田に不信をもった山田卓介が岡部を推す動きもあり、さらに北陸鉄道三国町迂回問題と三国米穀取引所設置のための尽力を理由に三国町が岡部を推す動きもあったが、結局岡部は出馬を断念し、坂井・吉田両郡の交渉会で、満場一致で杉田推せんが決定した。棄権票の多数出たことが注目された。
 第四回は杉田が家事にまつわる傷害事件で未決入檻中のため、代わりに坪田仁兵衛が出馬した。前回断念した岡部が好機到来として早々に出馬を表明し、運動を開始した。ここに従来より醸成されてきた坂井郡における東部と中央部との対立が噴出する。七月下旬に東部同好会(小林季太郎高椋村長、高椋村の山田斂、荒井信之磯部村長、斉藤五郎右衛門東十郷村長らを中心に)は岡部と交渉し、推せんを決める。そして一応硬派の立場を標榜し、また吉田郡有志協議会も大地主(増田所之丞、谷口庄之丞、吉田助右衛門、竜田利見、渡辺環ら)を中心に岡部推せんを決定した。坪田は七月末にようやく自由党公認で立つことになり、ここに党議席死守の立場の坪田と無所属硬派の立場の岡部との対決となる。八月中旬に坪田応援のため本部より立川雲平の来遊があり、坪田派の意気があがる。しかしこの八月に前述のように岡部の画策によって自由党県支部が分裂し、「正統」「閏統」の二つの県支部の発生といった事態を生じ、また「閏統」支部による坪田の党推せん取消が決議される。しかし、このような泥仕合も本部による閏統支部側の除名処分によっていちおうの結末をみ、終盤には坪田が優勢であった。第五回と第六回は杉田が復帰し、彼の独走であった。



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