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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第二節 政党・政派と選挙
     三 『若越新聞』と第四次『福井新聞』
      憲政党内閣の瓦解
 明治三十一年(一八九八)十月に憲政党が再び分裂し、旧自由党系が単独で憲政党(以下自憲党と略記)を組織した。ついで憲政党内閣が瓦解し、十一月には旧進歩党系もまた憲政本党(以下進憲党と略記)を結成し、第二次山県内閣が成立する。こうした政局の変動は当然に地方の政界にも大きな影響をあたえた。
 福井県においても旧憲政党福井支部が解散し、県選出の代議士と在京党員はほとんど自憲党に加盟したものの三田村甚三郎と藤田孫平は加盟せず、旧憲政党支部のもと一応まとまりをみせた県政界も再び対立の様相をはらむことになった。ともあれ旧支部は十一月四日、評議員会を開き解散を是認し、ついで十二日、旧支部員の会合がもたれ、上京委員より自憲党加盟の次第と支部員に対する入党勧告が行われた。こうして県政界の大勢は自憲派が再び指導権を握ることとなり、三十二年早々には自憲党福井支部が竹尾茂、松原栄、長谷川豊吉らを幹事にして樹立されたのである。



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