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 第二章 日清・日露戦争と県民
   第二節 政党・政派と選挙
     三 『若越新聞』と第四次『福井新聞』
      『若越新聞』の創刊
 こうした政局の動きを背景に従来微妙な対立を蔵しつつ並列してきた『若越自由新聞』と『新福井』との合併計画が進められた。すなわち『新福井』の松原栄、『若越自由新聞』の大橋松二郎との間の合併交渉、それに県農工銀行頭取の地位を基盤に県政界に再登場した竹尾茂のあっせん、そして新金主として藤井五郎兵衛の弟で紙問屋寺西家を継いだ寺西市右衛門の参画という条件が揃い、明治三十一年(一八九八)十一月七日、前記四人の発起人の名で創立祝宴会が催され、時世の要求、県下の事情という理由から両紙合併が宣せられた。そして十一月二十二日、『若越新聞』第一号が発刊された。これまで種々の事情から実現できなかった自由党系の統一紙発刊であり、県内における自憲党への結集による自由党系政治勢力の安泰を一度は完全に保障するかにみえた。『若越新聞』の創刊号の社説「初刊に題す」が庶幾くは爾今福井県下唯一の新聞紙として、永く志想界の先導者となり、当代の人心を鞭達し自から任じて二十世紀を迎ふるの準備に当らん哉。若越新聞の主義は徹頭徹尾自由、平等、博愛の外に逸出せさるなり、彼は絶対に世の進歩を愛し人類の退歩を憎むと述べている言辞は、まさにそのような抱負と自負とを物語っていた。しかし、それが一政党の機関紙であったことにおいて当然再びこれに対抗する新聞の出現を阻止しえなかったのである。
 さて、県内政治勢力の自憲党福井支部への結集をめぐって、県政界動揺の震源地ともみられてきた武生における三田村甚三郎、長谷川豊吉、土生彰の三者の動向が注目された。すなわち三田村は県選出代議士中唯一人進憲党に移り、長谷川は第五回総選挙に惜敗したものの以後新旧憲政党支部の支柱ともいうべき地位を確保していた。また、土生は『福井日報』廃刊後三十年初頭よりしばらくの間第三次『福井新聞』を武生で刊行し、三十二年早々分裂後の自憲党に入党、かつ同年一年間武生町長をつとめ、他方『若越新聞』に客員(後に大村紀山に代わり主筆)として再び論陣を張ることになる。彼が三十二年二月四日の『若越新聞』に内田忠治郎、藤井道斉との連名で特別寄書「吾党が憲政党に加盟せし理由」のなかで吾等は我が福井県に最も古く進歩党的空気を吹込みし者なり、吾等は自由党が漸く腐敗せんとせし時代に於て進歩党的気焔を鼓吹したる者なり。若し今日以前に於て我が福井県に二政党ありとすれば、其一は杉田鶉山等が結びたる旧自由党にして、其一は吾等の呼号したる進歩党なり。既にして自由進歩二党の合同新に成り、憲政党福井支部の創立せらるるや、吾等は相率て之れに加盟し、爰に始めて鶉山一派と士相見の礼を修したるなり。併し乍ら、此時の吾等は、最早や進歩党にもあらず、自由党にもあらず、又た憲政党にもあらずして、実に福井県党の建設者を以て自任したる者なりしなり……吾等は、自由進歩の二党合同せる頃、その合同せる憲政党の支部たる名義の下に、精神的福井県党を組織し、その福井県党の力を以て、中央政党を動かし、内部より之を改造し建設して、以て吾等の政見を実行するに便にせんとせし意思は、二党の分裂せる今日に於ても、尚ほ聊かも変せさるなり。而して此の意思を貫徹するには、兎も角県下を十分して其八九を占むべき憲政党福井支部の名の下に、智能ある有志を結合する必要を認むるなり。是れ吾等が憲政本党たるべき十年の歴史を有し乍ら、大義滅親の本文(ママ)により、敢て憲政党に加入したる所以なりと述べている。この寄稿は彼ならびに当時一部の政治勢力の動きを示しているものといえよう。



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