目次へ  次ページへ


序章
 『通史編2 中世』は『通史編1 原始・古代』のあとを受け、地方においても中世的な社会構造が明確に現われてくる十一世紀末の院政期から、越前の戦国大名朝倉氏と若狭の戦国大名武田氏が滅び、越前一向一揆が蜂起して朝倉氏旧臣を攻撃し、中世的領主支配に最後の打撃を加えた天正二年(一五七四)までをおおよそ中世の範囲と考え、叙述の対象としている。この中世のなかの各時期は院政期・鎌倉期・南北朝期・室町期・戦国期という政治史の枠組みに従って区分しているが、そうした時期区分に収まりがたい社会・経済の様相や宗教・文化の動向などについては、南北朝期を挟んで中世を前期と後期に区分して叙述した。全体として、越前・若狭の中世を特徴づけると考えられるような事項を中心にとりあげたが、個別の荘園や土豪についても可能な限り言及することにした。また時代の変化を中心に述べることを主としながらも、その時期ごとの全体的特質を論じるような節を設けて、各時期の特質を立体的に理解しうるように配慮した。

さて以下では、本文を読み進める方のための導入として、中世の越前・若狭の歴史的な位置について簡単にふれ、ついで各時期の特質と、また本文では個別的にとりあげにくかった問題を補いながら、そうした問題が現在の生活にどのようなつながりをもっているのかを述べてみたいと思う。
 すでに『通史編1』においても指摘されているように、越前・若狭は日本海交通において重要な位置を占めていたが、中世においても同様に日本海交通および交易の拠点であった。敦賀は中世を通じて日本海を航行してきた船が積み荷を降ろし必要物を積み込む要津であったし、若狭では鎌倉期までは三方郡気山が、それ以後は小浜がそうした役割を果たしていた。嘉元四年(一三〇六)に坂井郡崎浦に停泊した船は「関東御免津軽船二十艘の内随一」とされており、鎌倉期に鎌倉幕府の保護のもとで日本海を往返した津軽船の活動の一端が示されている。武田氏や遠敷郡羽賀寺が津軽安東氏と関係深かったことや、室町期小浜に十三丸という大船が入港していたこと、さらに『福井縣史』(一九二〇年)が指摘しているように、津軽の昆布を小浜で加工したものが狂言「昆布売」で知られる小浜の昆布であった。こうした小浜と津軽との関係は、日本海海運による恒常的な結びつきを前提として生まれたものであることはいうまでもない。敦賀や小浜が日本海沿岸各地と都を結ぶ中継地であったのに対し、古くからの三国湊や戦国期の南条郡河野・今泉の両浦は日本海沿岸の各地と越前国内を結びつける窓口の役割を果たしていた。三国湊と越前国内とを結びつけていたのは九頭竜川・日野川・足羽川・竹田川などの河川交通であり、河野・今泉の両浦と府中(武生市)との間は馬借が商品の陸上輸送にあたっていた。
次に越前に関しては、陸路においても北陸の要の地位を占めていたことに注目する必要がある。北陸の反平氏叛乱軍と平氏との戦いにおいて、平泉寺斉明らが平氏を裏切って叛乱軍に味方すると、平氏軍は敦賀より進むことができず、燧城合戦において斉明が再び裏切って平氏方になったのちに平氏軍は越中国境まで進軍しえたのである。北陸の戦いはこの意味では越前をめぐる戦いであったということができ、越前を失うと北陸をも失うのである。同様のことは南北朝初期の敦賀金ケ崎城や足羽の戦いについても指摘しうるであろう。皇子を部将とともに各地方に派遣し反撃の拠点を作り上げようとする後醍醐天皇の戦略は、越前における作戦が成功するか否かに大きく依存していた。越前の南朝軍は派遣された両皇子や総大将の新田義貞を失ったのちも、越前各地で戦闘を続け、越前を確保するために足利尊氏から守護として派遣されていた斯波高経の幕府方軍勢を苦しめたのである。さらに降って戦国期には越前に戦国大名朝倉氏領国が形成され、加賀には一向一揆領国が出現した。したがって永正三年(一五〇六)の九頭竜川の合戦をはじめとする朝倉氏と一向一揆の戦いは、戦国大名と一向一揆という戦国期の二大勢力の戦いであった。朝倉氏が滅んだのちこの戦いは、越前一向一揆と全国統一権力化をめざす織田信長との戦いとして新たな局面を迎えた。一向一揆は門徒百姓勢力の拡大によって中世を打破しようとする動向であったから、武士勢力の全国的結束によって中世を克服しようとしていた信長にとって一向一揆の進もうとする道は根本から否定しなければならないものであった。越前一向一揆と信長の合戦はこのように中世を乗り越えるあり方の根本的な対立という性格をもっていた。それゆえ一向一揆が信長の軍勢によって血の海に沈められたのちの柴田勝家の支配は、当時の日本の状態のなかでは最も「先進的」なあり方を示しているのである。要するに、越前はその北陸道のなかで占める地位により、その後の日本の歴史に影響する二大勢力激突の焦点の場となることがあったのである。

  院政期・鎌倉期

  現在に残る荘園地名

  南北朝期・室町期

  地域の新しい中心地の成立

  戦国期

  信仰と儀礼



目次へ  次ページへ