目次へ  前ページへ  次ページへ


序章
  院政期・鎌倉期
 この時期は、荘園制(荘園公領制)が体制的に確立されていく過程においてと荘園領主とが、あるいは公家・寺社・武家の諸勢力が、荘園領主や荘官としてそれぞれの支配権確立を求めて対立した時期である。内乱ののちに鎌倉殿源頼朝を長とする御家人集団が将軍・守護・地頭などの職を公認されて一応の決着が図られ、荘園・公領(国衙領)の秩序も確定されていくことになった。しかし十三世紀前半においては御家人身分もまた確定されきってはいないようであり、国内の耕地とそれに帰属する人についても未確定の部分を残していた。若狭の三方郡御賀尾浦(三方町神子)や遠敷郡宮川保大谷村・矢代浦における延暦寺僧や日吉社神人の活動はこうした状況をふまえて、日本海廻船を営む浦人を神人として掌握しようとする動きとして理解される。
 平安期以来の土着武士で御家人となった人を国御家人とよぶが、越前・若狭ともにこの国御家人で地頭に任命された例はない。したがって彼らは、遠敷郡太良保の公文雲厳がそうであったように、御家人でありながらその帯びる職は公文職・下司職・名主職など荘園領主あるいは国衙の支配下に置かれており、荘園領主・国衙と幕府の支配への両属が国御家人の常態であったのである。地頭には主として関東御家人が任じられたが、彼らは特に承久の乱ののちには、支配下の民はすべて隷属民とみなすという東国で発展した論理をふりかざして支配した。しかし若狭一・二宮宜家が国御家人たちとの結びつきを強めて勢力維持に務めていることや、越前の国御家人河合斎藤氏の出自をもつ平泉寺長吏実暹の職が「先祖相伝の所帯」と称されていることをみれば、国御家人を中心とした伝統的勢力には根強いものがあったと思われる。さらに国御家人や荘民は、十三世紀の中ごろから幕府の御家人所領保護令を手がかりとしたり、荘園領主の支持を受けて反撃を開始する。こうして荘園領主・国衙・地頭・国御家人・百姓などの諸勢力の均衡の上に一定の秩序が生まれるが、十三世紀後半にはモンゴル襲来や銭貨流通の拡大にともない事態は再び流動化し、それに対応するために得宗(北条氏の嫡流家)の専制が強められていった。



目次へ  前ページへ  次ページへ