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序章
  現在に残る荘園地名
 この時期に確立し、中世を通じて歴史の舞台となった荘園(国衙領も内部構造は同じである)は最終的には十六世紀末の太閤検地によって否定された過去の制度であるが、現在でも周辺を見渡してみればその痕跡を見出すことはさほど困難ではない。小浜市太良庄や遠敷郡名田庄村のように現在も荘名を名乗っている場合だけでなく、県下各地にみられる新庄・本保・新保・本郷を付した地名も荘園・国衙領に発する地名である。さらに大野市のもと小山荘内に集中してみられる領家方・地頭方に分かれた村名は、鎌倉後期に行なわれた下地中分の結果として生まれたものであり、小浜市本所・飯盛は南北朝期後半の守護による半済にもとづく地名である。また敦賀市公文名・芦原町公文のように荘官に関するもの、武生市馬上免・今庄町馬上免など免田に由来するもの、福井市重藤・三国町覚善など荘園の名主の名称にちなむものなど荘園地名は多く、これに小字名まで加えると相当な数になるであろう。九頭竜川の鳴鹿で取水し、坂井平野を潤す大規模な用水を十郷用水と称するが、この十郷用水の名称は坂井平野に形成されていた興福寺領河口荘を構成する十郷の用水であったことにちなみ、その用水管理は中世荘園制以来の伝統を有している。
 荘園の神社の神事が今日まで生きている代表的な例が、春日社領三方郡耳西郷の宇波西神社の祭礼であり、郷内の村を単位とした神事奉納は戦国期には確実に始まっていた。また大野市街地には春日社と清滝社があるが、春日社は市域南部の小山荘の領主春日社により勧請されたものであり、清滝社は市域北部の牛原荘の領主醍醐寺の鎮守が勧請されたものである。地頭の勧請した神社としては鎌倉後期に三方郡御賀尾浦に勧請された諏訪社が知られる。その他こうした例は多く、神事や神社にも荘園の痕跡が刻み込まれているのである。



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