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序章
  南北朝期・室町期
 得宗専制のもとで押さえ込まれていた諸矛盾の激化が鎌倉幕府の崩壊、建武新政府の成立、南北朝期内乱を引き起こすことになった。この内乱のなかで守護支配権の強化が進み、それを前提として室町幕府による全国支配の一定度の安定化がみられるが、やがて幕府内部の分裂を直接の原因として応仁の乱に突入していく。
 鎌倉後期より現われた「悪党」的な行動は南北朝期には一種の社会現象として広くみられるようになり、旧来の身分的規制や作法、すなわち伝統的価値を無視して目的を達しようとする動きが目立つようになる。これは換言すれば個性の躍動する時期ともいえるが、それは単に得宗専制からの解放だけでなく、もっと大きな社会変動を越前・若狭の人びとも経験しつつあったことを示している。鎌倉期において遠敷郡太良荘の代官定宴は荘民に対し「農料を下し、斗代を減じ」て「満作」させる「勧農」を荘園支配のための最も重要な任務としていた。この定宴に対して荘民は子孫七代にいたるまで忠誠を誓ったといわれており、代官と荘民との間には一種の人格的つながりも認められる。しかし南北朝期以降に請負代官制が普及するようになると「勧農」は行なわれなくなり(行なわれたとしてもそれは代官の私腹を肥やすためであった)、代官と荘民の人格的なつながりは消えて、米銭の収納と負担を中心とする契約的な関係が強まっていった。
 南北朝以降、百姓たちはまるで申し合わせたように古代以来の氏名を名乗らなくなり、結合を強めつつある惣村内部で権守・大夫などの呼称を独自に用いることがさかんになっていく。そのような横のつながりが基礎となって、相対的にではあれ「都」からの「田舎」の自立が促進されていくのであり、荘園領主に対して「田舎の作法」や「国の大法」が主張されたのも南北朝・室町期のことであった。しかしこの「田舎」の自立は同時に守護領国の自立化とともに進行したことに注意しておく必要があろう。越前では、南北朝期が終わるころには平安期以来栄えた斎藤氏が一部を除いてかつての勢力を失ったことが推定され、若狭においては、鎌倉期を生き抜いてきた有力国御家人たちの多くが応安四年(一三七一)の守護一色氏方と国人一揆との合戦で一揆方となって没落した。主要な敵対勢力を一掃したのちに一色氏の守護領国支配が進み、その跡を継いで守護となった武田氏も一色氏遺臣を排除したから、国内ではさしたる反対勢力の抵抗に遭うことなく武田氏は戦国大名化しえたのである。
 越前では守護斯波氏と守護代甲斐氏の確執に端を発して国人勢力が守護に結びついたため、両勢力のぶつかりあう長禄合戦が大名領国支配実現のための超えなければならない一段階となった。



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