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序章
  地域の新しい中心地の成立
 今日からみて注目されるのは、この時代を中心に越前・若狭の国内にいくつかの地域の中心地と称しうるものが町の形をとって現われてくることである。若狭遠敷郡についてみると、鎌倉・南北朝期においては郡内に国衙所在地の府中(その正確な場所については諸説ある)、守護所のあった堤・西津、若狭姫社の門前市として定期的に開かれていた遠敷市場があり、これら政治・経済の中心地は郡内に分散して存在していた。しかし室町期になると小浜が周辺農村の日常生活に欠くことのできない経済の中心地となり、守護・国衙支配の中枢機構の一つである小浜代官が置かれ、さらに浄土宗・浄土真宗・法華宗という新興教派の寺院も小浜に集中するようになる。すなわち遠敷郡における中心地としての小浜の地位が確立するとともに、さらに国全体の中心地として発展しつつあることがわかるのである。
 越前においては、鎌倉期末より坂井郡金津が荘園領主の興福寺によって注目され、八日市を中心として宿とも称されたこの地が周辺地域の中心地へと成長していったことが知られる。また足羽社の門前であり、同時に水陸交通の要所であった足羽山の麓には、のちに北荘・木田荘・社荘(石場荘)の足羽三か荘と称された町が形成され、絹製品を扱う商人衆が活動し始めていたと思われる。大野の町を確認しうるのは戦国期であるけれども、その町の原型が室町期に生まれていたことは確実と思われ、大野郡北部の平泉寺坊院群と市場が形成する町に対する、大野盆地の中心地としての役割を担い始めていたであろう。これら地域の中心地となった町の特質は複数の荘園の境界の地にあったことであり、この意味においてこれらの町は中世の荘園制の枠組みを超えたところに形成されたという新しい性格をもっている。それゆえこれらを中心地とするそれぞれの地域は中世が終わると解体してしまうのではなく、これらの町はその後も地域の中心地であり続けたのである。



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