目次へ  前ページへ  次ページへ


序章
  戦国期
 この時期は、越前・若狭においてそれぞれ朝倉氏・武田氏という戦国大名が成立し発展を遂げていく時期である。特に越前において文明三年(一四七一)は画期的な年であった。いうまでもなく、朝倉氏が応仁の乱において西軍から東軍に転じたのがこの年であるとともに、蓮如が坂井郡吉崎に下向してきたのもこのときのことであった。そしてこののち越前のみならず、北陸の歴史を規定した戦国大名朝倉氏と加賀あるいは越前の一向一揆が成立してくることになるのであり、しかもこの両者は十六世紀になるとしばしば対立し、抗争する。
 戦国期の特質は何よりも戦国大名のもとへ権力が集中されることにある。朝倉氏のもとへの裁判権の集中がそれを示しているが、同時に一乗谷や府中における奉行人制度にみられるように組織を通じての行政も進展する。朝倉氏は国内の人びとを給人(家臣)・寺庵(寺社身分)・百姓に区分している。寺社の僧や神官および百姓はそれまで本寺や本家・領家という国外の縦の線のつながりを保持していた。しかし今やそれらのつながりは弱体化し、中世の寺社が有していた自立性は失われ、寺社は大名の支配する「国家」の祈念を命じられ、百姓は個々の荘園の荘民であったとしても同時に「国の百姓」として大名への役を負担しなければならなくなったのである。
 しかしいうまでもなく、朝倉氏や武田氏の権力集中には大きな限界があった。それは家臣たちの領主権を制限して直接に農民を掌握することができず、旧来の荘園本年貢と内徳を認めたうえでの複雑な支配にとどまっていたからである。敦賀郡江良浦や遠敷郡太良荘の指出の例からわかるように、この時期の領主たちの支配は村落から年貢額などを記した指出による申告と、個々の領主によるその承認という合意の手続きをふんでいた。中世農村支配の伝統をふまえながらも、個々の百姓を直接に対象として年貢高を査定し、彼ら百姓を村という集団に帰属させ年貢を請け負わせるという新しい支配方式は、戦国大名や一向一揆を滅ぼした統一権力によって果たされることになる。



目次へ  前ページへ  次ページへ