目次へ  前ページへ  次ページへ


序章
  信仰と儀礼
 室町期・戦国期以降に明瞭になってくる動向として、惣村的な村落結合の強化と家の形成がある。若狭においては村人が主体となって行なう惣鎮守の神事が持続的に行なわれるようになり、他方で天台・真言系有力寺院は信仰を地域に拡げるために働きかけ、それに応じて在地武士や庶民が二親や自身の現世安穏・後生善処を祈願するために如法経米を寄進することが広くみられるようになった。これらは単純化していえば人びとの自己確認のための村の神事と家の仏事が定着してきたということができよう(このほか家の神事があるが史料上は未詳である)。
 越前においても状況は同様であったと考えられるが、戦国期には浄土真宗とりわけ本願寺派の信仰が越前嶺北地域に普及した。本願寺門徒は朝倉氏を排除して越前を加賀のように「一揆持」の国にすることはできなかったが、その力は朝倉氏滅亡後の越前一向一揆として発揮された。この一揆は織田信長によって徹底的な弾圧を受けるが、それでも越前が浄土真宗の優越する国であるという性格までも変えることはできなかった。浄土真宗は実際には村や家の神事を否定するわけではないが、それらに対する考え方には独自なものがある。こうして戦国期にいたって人びとの生活を精神的に支える信仰において、大まかにいえば越前と若狭、あるいは嶺北と嶺南との間の一つの差異が明確になってきた。
 この違いが村や家の神事祭礼や民俗儀礼の維持、それと関連する村の組織の様相、仏教美術のありかた、さらには出産率などにどのような違いとなって表われてくるのかは、中世の問題というより近世以後の問題である。ただ一つだけ例示しておけば、近世若狭の村においては宮座の家格について厳密な、閉鎖的な印象の村がままみられる。同時に現在でも若狭の北川とその支流においては田植えの終わった初夏に子供たちによる「ヤスンギョウ(休業)」とよばれる田の神の村内巡行が行なわれており、見てほほえましく、大人たちにとっても昔の良き思い出となっている。この子供神輿が出発するときに「カイチョー ソロタカ」とのかけ声を「大将」がかけるが、これは「駕輿丁揃ったか」という古い言い方の訛ったものという。この若狭における近世の村の宮座秩序と今日の子供神輿の例は、確かに中世以来の古いものが残されてくる場合の二側面を示している。これに対して越前がこれと対照的な性格をもっていると割り切ることは到底できないが、越前と若狭、あるいは嶺北と嶺南の微妙な違いも、おそらくさかのぼれば中世にその淵源を求めることのできるものが少なくないことと思われる。



目次へ  前ページへ  次ページへ