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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第一節 院政期の越前・若狭
    一 越前・若狭と平氏
      院分国
 嘉保二年(一〇九五)藤原家保が越前守に、天治二年(一一二五)藤原家成が若狭守に任じられた。右はその事実を語る『公卿補任』に、それぞれ「院分」「新院給」と注記されており(『公卿補任』長承元年家保条、保延二年家成条)、各時点で越前が白河院、若狭が鳥羽院の院分国だったことがわかる。院(宮)分国とは、「院分」(中宮や東宮であれば「宮分」となる)に充てられた国をいい、「院」は上皇(太上天皇、すなわち一院・新院)およびそれに準ずる女院などをさす。本来中央政府が取得するはずのその国の公納物を、年限を限って院(宮)に取得させる国家の公的な制度で、国守には院(宮)の近習が推任され国務をとった。国守に年少の場合があるが、そのときは彼の父が後見として実際の指示を与えた。家保は嘉保二年当時まだ一五歳、家成は天治二年当時一九歳であった。それぞれの父は顕季、家保である。つまり、家保のときは顕季、家成のときは家保が国守の後見役としてにらみを効かせていたのであろう。両者は白河院の側近として知られた人物である。
図1 院宮分国制と知行国制の構造

図1 院宮分国制と知行国制の構造
   注1 矢印の線はルートではなく納入先を示したもの。
   注2 「俸料その他」とは、国司の俸料のほかに、京進される公納物・国衙の費用等を除いた
      余剰を加えたものをさす。
   注3 中央とは、調庸・官物・封米等を納めるべき中央の官司・封家・寺社など全体をさす。

 院(宮)分国は知行国制と混同されることがあるが、別物である。知行国は公卿ないしこれに準ずる廷臣が国司でもないのに職務の実権をとる国のことで、その人物を知行国主といい、国守には彼の推挙で子弟などが任ぜられる。知行国主は形式的には陰の存在であるが、中央への上納物と国衙の諸経費を除いたもの、つまり国守の俸料その他を自らの所得とすることが許されている。つまるところ、特定個人に国務沙汰の実権を与え、国守の所得を彼の一家の経済に取り入れるしくみといえよう。知行国主と分国主の所得が別であるなど、知行国と院分国は構造上同居が可能であり(図1)、その場合知行国主が院近習であれば、彼の推挙する国守と、院分国の国守に誰を推すかという院の意向は、実際には食い違うことはない。そのため、ある知行国が院分国に充てられるという両者の複合形態もありうる。この場合、院の近習たちにとって院分国制は、むしろ彼の知行国保持をおおう隠れ蓑の役割を果たすことになる。
 以上のことから、家保のときの顕季、家成のときの家保はそれぞれ知行国主の立場にあったと想定することもできよう。



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