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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第一節 院政期の越前・若狭
    一 越前・若狭と平氏
      美福門院分国
 こののち久安二年(一一四六)の時点で、越前は藤原得子の分国だったことがわかる(『台記』久安三年十一月十三日条)。得子は鳥羽院政期、鳥羽院の后として権勢をふるった女性(のちの美福門院)で、越前の「美福門院御沙汰」は永暦元年(一一六〇)まで続いた(資1 兵範記裏文書、「醍醐雑事記」巻一二)。この間の国守は、藤原俊盛・藤原隆信・藤原実清・藤原季能である。
 
表1 院政期越前・若狭の国主と院の近臣

表1 院政期越前・若狭の国主と院の近臣

 さらに俊盛の前任藤原惟方は、永治元年(一一四一)十二月国守就任の月、皇后宮権大進を兼任した(『公卿補任』保元三年惟方条)。皇后は同十二月即位した近衛天皇の母、つまり得子その人である。惟方は一七歳で越前守になっているから、父顕頼が後見(知行国主)をしていたのだろう。顕頼は鳥羽院の乳母子(乳母の子、すなわち乳兄弟)で院の執事別当、得子を鳥羽院の後宮に入れるのに一役買った人物である。かくして、越前が美福門院分国となったのは、永治元年までさかのぼると思われる。
 一方、若狭は永暦元年十一月に美福門院の分国であったことがわかる(資1 「山槐記」同年十一月三日条)。時の国守は仁平三年(一一五三)四月、越前から転じた藤原隆信である(資1 「兵範記」仁平二年十二月三十日条)。似絵の名手として知られ、美福門院の女房加賀の子で、得子身辺の人物である。隆信の前任藤原親忠は、得子の乳父(乳母の夫)であるとともに美福門院加賀の父であり、隆信の母方の祖父である。さらに親忠の前任者藤原清成も近衛天皇乳母の家子の子である。清成は二期若狭守を務めており、初任は久安三年ころ、親忠の場合は久安六年以降仁平三年までの在任と考えられる。遅くとも親忠の段階で、若狭も美福門院分国となっていたのだろう。
 院政期の越前・若狭では、惟方・清成以前でも院の近習が相ついで国守を務めるようになっていた。表1のうち*を付した者は、いずれも白河・鳥羽院政に羽振りをきかせた著名な院の近習たちである。以上、若越とくに越前は、白河・鳥羽両院政期を通じて院の近習が受領になる国という性格を濃厚に帯びていた。彼らがみな「院分」の受領ではないとしても、短くない分国期間を想定すべきだろう。保元の乱以前より越前・若狭は、院やその近習の利権の対象地と化していたのである。



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