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コラム#ふくいの記憶に出会う Fukui Prefectural Archives

インターネットで資料調査 ~福井藩士力丸家の歴史をたどる~

番外編 「力丸又左衛門の知行所と力丸家の屋敷」はこちらをご覧ください。

0.はじめに

インターネット上には、検索はもとより、閲覧できる資料もたくさんあり、その数はどんどん増えています。
福井県文書館でも、資料検索・閲覧システム「デジタルアーカイブ福井」で資料の画像、ウェブサイトで資料の翻刻を活字化した『福井藩士履歴』などの「福井県文書館資料叢書」のデジタル版、また「幕末福井関連資料データ」や「「給帳」データセット」といったオープンデータの公開を進めています。
そこで、今回のコラムでは、インターネットを活用してどこまで調査できるか、その実践例を紹介していきます。


1.(現地に)行かなくても、(くずし字を)読めなくても ~御暇から帰参した力丸秋江(隆輔)~

8代(1)福井藩主松平吉邦は、正徳4年(1714)に大道寺友山という人物を召し出しました。それから百数十年後、初入国直前の16代藩主慶永(春嶽)は、水戸藩主徳川斉昭に藩主たるものどうあるべきかを問いました。
その慶永に斉昭は、「士道のせんさくハ御家中ニて著述の初心集等実ニ感入候事ニ候」(2)と答えています。この斉昭が感じ入る「初心集」を著した「御家中」とは、友山のことです(ただし、「初心集」(『武道初心集』)の成立は未詳)(3)。
力丸東山(りきまる・とうざん)という人物は「武士の心得べき二十一箇条」にはじまり「武士の恥べき十七箇条」とつづく、『武学啓蒙』(4)という書を著しています。この東山もまた、福井藩とは無関係ではありません。先祖が福井藩士であったといいます。
「武士」のあるべき姿を論じた力丸東山、その力丸家は、なぜ藩士ではなくなってしまったのでしょうか。この福井藩士力丸家を調査してみましょう。
「力丸」、珍しい名字です。「デジタルアーカイブ福井」の「人物文献検索」で検索してみると、東山のほかに2人、あわせて3人が見つかりました(「力丸大吉郎」「力丸東山」「力丸藤左衛門」)。

「人物文献検索」の参考文献(『越前人物志』上巻(5)『越前人物志』中巻(・下巻)(6)『坂井郡誌』(7)『若越墓碑めぐり』(8))によると、大吉郎は福井生まれ。東山の子で、幼年期から弓矢に親しみ、寛政5年(1793)に4歳で蓮華王院(三十三間堂)半堂百射を開基したとあります(ちなみにその時の記録は「百発内通矢四十一」だったそうです)(9)。
また、後述の寛政(1789~1801)末に福井を訪れた際には、藩主の前で揮毫し、「一座其技に驚き」神童と呼ばれたそうです(10)。

東山は越前生まれ。藤左衛門の子孫で、力丸家は曽祖父の兄の代に御暇を下され、祖父丸龍は坂井郡三国新保村円海寺(現在の坂井市三国町新保)の僧、父十郎左衛門氏英は「武芸を好み最も鎗術に達」したといいます。その武英の子東山は、京都に上って古学や性理学(朱子学)を学び、詩文や書もよくして京都白山町で開塾したとあります(11)。
そして、寛政末に大吉郎とともに福井を訪れ、書道を通じて「眼医関拳竜」(『福井藩士履歴 3 け~そ』(12)262頁・263頁の「関竜輔」)と交流し、拳竜や「本多大夫」を頼って「再勤の内願を嘆訴」するも、願いは通らず、父子ともに帰京したそうです。帰京後は麩屋町松原北に住み、文化12年(1815)10月24日没したとあります(13)。

藤左衛門は「結城家の重臣を以て秀康に越前に仕へ、禄八百石、貞享中(1684~1688-筆者注)四百石となり、延宝五年(1677―筆者注)十二月十九日没す。」とあります(14)。初代から数代後までの経歴が入りまじっていますが、福井藩士力丸家は初代福井藩主結城秀康以来の古い家柄だったようです。

参考文献からいろんなことがわかってきましたが、これらの参考文献は、『若越墓碑めぐり』を除いて典拠が示されていません。資料でどこまで裏づけられるでしょうか。東山の曽祖父の代に御暇を下されたとすると、掲載されている可能性は低いですが、手はじめに活字になっている『福井藩士履歴』(福井県文書館資料叢書9~16)(15)で力丸家を探してみましょう。
「士分」(9~14、第1冊目~第6冊目)にはありません。
「子弟輩」(15、第7冊目)にもありません。
「新番格以下」(16、第8冊目)に、ありました(『新番格以下1 イ~リ』(16)172頁、底本はA0143-01009松平文庫「新番格以下 一(イハニホヘトリ)」(17))。
「力丸秋江」という人物です。一代きりですが、思わぬ収穫がありました。

秋江は京都在住の15石3人扶持で、慶応元年(1865)5月5日に「貞享之度」の御暇から帰参したとあります。福井藩にとって貞享3年(1686)は藩史上の転機で、6代松平綱昌から7代松平吉品への代替わり時に所領が半減しています。「貞享の半知」や「貞享の大法」といわれる事件です(18)。「貞享之度」は、その貞享の半知のことでしょう。
また、力丸家は「数代」にわたって帰参を「志願」していたとあり、「貞享之度」の御暇以来、帰参は代々の宿願だったようです。こうして「格別之御厚評を以帰参」した秋江ですが、「是迄被下置候三人扶持之上ニ」15石をあてがわれています。帰参する以前から3人扶持を下し置かれており、何かしらの形で藩とのつながりがあったようです。

「新番格以下 一(イハニホヘトリ)」

松平文庫 「新番格以下 一(イハニホヘトリ)」(1コマ目

「新番格以下 一(イハニホヘトリ)」

松平文庫 「新番格以下 一(イハニホヘトリ)」(424コマ目

「新番格以下 一(イハニホヘトリ)」

松平文庫「新番格以下 一(イハニホヘトリ)」(425コマ目

秋江の履歴中の「京都」や「御暇」、「数代打続志願」は参考文献の『越前人物志』の記述と符合します。ただ、「貞享之度御暇被下候」は「貞享中四百石となり、又左衛門の代に至り御暇となる」という記述との間に齟齬があります。
「新番格以下」の書役と『越前人物志』の福田源三郎氏、どちらかが誤認してしまったのでしょうか。


2.『福井藩士履歴』で歴代藩士を“しらみつぶし” ~力丸又左衛門は「不所存者」~

『福井藩士履歴』で東山・大吉郎の子孫らしき人物は見つかりましたが、これだけでは確証が持てません。もしかすると、他家に力丸家に関する記述があるかもしれません。もう少し『福井藩士履歴』を活用してみましょう。
今度は全文検索です。すると仙石(2)家(『福井藩士履歴 3 け~そ』248頁)、千本家(同250頁)、山口(1)家(『福井藩士履歴 6 み~わ』151頁)の3家に力丸に関する記述がありました(19)。

仙石(2)家は、庄右衛門代の延享4年(1747)正月21日条に「知行御取上ケ、此訳ハ力丸又左衛門不所存者ニ付」とあります。
庄右衛門は、「不所存者」を理由に又左衛門を「義絶」し、御目付に申し達したところ、「当時相勤罷在候」又左衛門を「麁忽」(そこつ)に取り扱ったとして知行100石を取り上げられ、逼塞を仰せ付けられています。改めて25石5人を下されていますが、切米です。知行取から切米取へと格下げされてしまいました。
仙石(2)家の一大事です。その遠因が、又左衛門の「不所存」でした。しかも又左衛門と庄右衛門は、「義絶」ということで親族の関係にあったようです。

「剥札 下」

松平文庫「剥札 下」(559コマ目、右から1人目)

千本家は、享保7年(1722)に召し出された長右衛門代の延享4年正月21日条、仙石庄右衛門と同じ日に「御叱、是ハ力丸又左衛門義絶之義申達候ニ付而也」とあります。
長右衛門も、又左衛門の「不所存」に端を発した一連の出来事に関わっていたようで、庄右衛門よりは軽いものの、御叱を受けています。

「剥札 下」

松平文庫「剥札 下」(561コマ目、右から3人目)

山口(1)家は、正徳元年(1711)に召し出された作右衛門代の享保5年(1720)7月21日条に「与内検地役力丸又左衛門跡」とあります。作右衛門が仰せ付けられた与内検地役の前任者が、又左衛門でした。

「剥札 下」

松平文庫「剥札 下」(167コマ目、右から2人目)」

いずれも貞享の半知以後です。そして名は又左衛門です。
まだ享保5年の又左衛門と延享4年の又左衛門が同一人物かどうかわかりませんが、少なくとも後者は『越前人物志』の「又左衛門の代に至り」の又左衛門でしょう。


3.「給帳」翻刻データで歴代藩主を“串刺し” ~1000石取の力丸藤左衛門~

「人物文献検索」の藤左衛門・東山・大吉郎に『福井藩士履歴』の又左衛門・秋江を合わせると、福井藩士力丸家の系譜は藤左衛門・又左衛門・東山・大吉郎・秋江と連なりそうです。ただ、藤左衛門と又左衛門との間には数代分の空白があります。
ちょうど、貞享の半知以前の初代藩主結城秀康から7代松平吉品まで、各代の「給帳」の翻刻データが公開されていますので(「給帳」データセット」)、つぎは「給帳」の翻刻データで「力丸」を串刺し検索してみましょう。

表1 初代結城秀康~7代松平吉品の力丸家
藩 主 知 行 姓 名 その他
初代 結城秀康 1,000石 力丸藤左衛門 ・「上野国」(生国)
・「十兵衛祖父」(朱筆)
2代 松平忠直 800石 力丸藤左衛門
200石 力丸左次右衛門
3代 松平忠昌 800石 力丸藤左衛門
4代 松平光通 600石 力丸藤左衛門
6代 松平綱昌 400石 力丸十兵衛
200石 力丸又左衛門
7代 松平吉品 25石5人扶持 力丸又左衛門 ・「御番組」
(注)5代 松平昌親は欠。

初代秀康に1,000石取の力丸藤左衛門という人物がいました。この藤左衛門が「人物文献検索」の「力丸藤左衛門」でしょう。
続く2代忠直には藤左衛門と左次右衛門という2人がいます。知行からみて分知された者のようです。6代綱昌にも十兵衛と又左衛門という2人がおり、やはり分知のようです。知行の少ない又左衛門が分家方でしょうか。
そして貞享の半知以後の7代吉品は、又左衛門が残っています。すると6代綱昌の十兵衛が、貞享の半知で御暇を下された秋江の先祖でしょうか。

4.「デジタルアーカイブ福井」で資料を閲覧 ~藤左衛門から又左衛門へ、そして東山へ~

「給帳」の翻刻データで、貞享の半知以後も存続したと思しき又左衛門家、貞享の半知で御暇になったと思しき十兵衛家、2家の存在が確認できました。ただ、手がかりはつかめたものの、「給帳」はその性質上、記載されている内容が点で時間幅はありません。点と点の時間軸をつなぐ必要があります。資料に当たってみましょう。

4-1.松平文庫「諸士先祖之記」

松平文庫に「諸士先祖之記」という資料があります。享保6年(1721)に8代吉邦の命で編纂された家中390家の系図書です(20)。力丸家を探してみると、「同(秀康公-筆者注)御代先祖被召出所不相知分」にありました。

「諸士先祖之記」

松平文庫「諸士先祖之記」(104コマ目

「諸士先祖之記」

松平文庫「諸士先祖之記」(105コマ目

初代は藤左衛門勝時(表1の初代秀康の藤左衛門、1000石)、2代藤左衛門治時(表1の3代忠昌の藤左衛門、800石)、3代藤左衛門重時(表1の4代光通の藤左衛門、600石)ときて、4代は又左衛門建時(表1の6代綱昌の又左衛門、200石)です。そして5代の又左衛門本雅(表1の7代吉品の又左衛門、25石5人)と続いています。

3代藤左衛門は「初名十兵衛」とあります。表1の6代綱昌の十兵衛(400石)はいったい誰なのでしょうか。
ちなみに前出の仙石(2)家も同じ「同御代先祖被召出所不相知分」にありました。庄右衛門は4代庄右衛門清直で、宝永元年(1704)に養父3代喜左衛門義直の跡知を相続しています。実父は力丸家の5代又左衛門本雅です(99コマ目100コマ目)。兄弟か伯父(叔父)甥の間柄でしょうか。

4-2.八代吉邦以降の「給帳」

現在、「給帳」の翻刻データが公開されている藩主は、初代秀康から7代吉品まで、17代のうちの5代分21)です(22)。十兵衛も気になるところですが、貞享の半知以後も存続した又左衛門家は、8代吉邦以降はどうなったのでしょうか。8代吉邦以降の「給帳」も確認してみましょう(23)。

表2 8代松平吉邦~17代松平茂昭の力丸家
藩 主 知 行 姓 名 その他
8代 松平吉邦 切米25石5人扶持 力丸又左衛門 ・「養父又左衛門代弐百石半知百石」
・「元禄十年養父又左衛門跡目此通被下」
10代 松平宗矩 20石3人 刀丸治左衛門 ・(大御番組)「五番」
14代松平斉承 3人扶持 力丸大吉郎 ・「京都」
16代松平慶永 3人扶持 力丸秋江 ・「京都出入」
(注)9代松平宗昌・11代松平重昌・13代松平治好・15代松平斉善は欠。12代松平重昌のA0143-01318松平文庫「(重富公近侍姓名)」、17代松平茂昭のA0143-01028松平文庫「給帳」には記載なし。8代松平吉邦はA0143-01317松平文庫「貞享三年御新規以来惣侍中拝知并御擬作被下帳」より、10代松平宗矩はX0145-00203国文学研究史料館(越前史料)「徳正院様御代御家中帳」より、14代松平斉承はA0143-01319松平文庫「斉承公御代給帳」より、16代松平慶永はA0143-01320松平文庫「給帳」より作成。

8代吉邦の又左衛門は7代吉品の又左衛門と同一人物(5代又左衛門本雅)で、吉品・吉邦の2代に仕えていたようです。延享4年当時の藩主は10代宗矩です。そうすると、この10代宗矩の治左衛門が「不所存者」の又左衛門なのでしょうか。

「斉承公御代給帳」

松平文庫「斉承公御代給帳」(94コマ目、左から1人目)

「給帳」

松平文庫「給帳」(117コマ目、右から9人目)

そして、秋江の前に14代斉承の大吉郎が出てきました。『福井藩士履歴』の「是迄被下置候三人扶持」は、遅くとも大吉郎の頃から下し置かれていたようです。

4-3.松平文庫「諸役人并町在御扶持人姓名」

もう少し資料を探してみましょう。松平文庫に「諸役人并町在御扶持人姓名」という13分冊の資料があります(7冊目は欠)。そのうちの3冊に力丸の記述がありました。

「(六)御徒」の力丸次左衛門(2コマ目、右から2人目)は享保5年(1720)6月13日に召し出され、同11年3月21日に親又左衛門の家督を相続して擬作(扶持米)を返上しています。

「(十)知行減切」の力丸金右衛門・力丸源六(13コマ目、右から3人目・4人目)は親子で(源六は22コマ目に又左衛門として再掲、右から3人目)、親金右衛門は元文元年(1736)2月13日に「果ル」とあります。

「諸役人并町在御扶持人姓名 (十)」

松平文庫「諸役人并町在御扶持人姓名 (十)」(1コマ目

「諸役人并町在御扶持人姓名 (十)」

松平文庫「諸役人并町在御扶持人姓名 (十)」
13コマ目、金右衛門・源六は13コマ目の右から3人目・4人目)

子源六は同年4月5日に家督を相続して12月に又左衛門と名替、延享4年(1747)正月21日に御暇を下され、「御国立退」を仰せ付けられています。
いました。「不所存」で「義絶」された又左衛門です。

「(十一)御本丸・一ツ橋・紀州・田安・京都・江戸・大坂・大津・柏崎・丸岡・粟ケ崎・金沢・敦賀・小浜・遠州・江州・甲州・尾州・参州・駿州・濃州・播州・泉州・武州・紀州」は「力丸弾正」「力丸大吉郎」「力丸隆助」「力丸貞三郎」「力丸秋江」(49コマ目50コマ目)の5代分です。
大吉郎がいます。その前の「力丸弾正」は東山です。東山・大吉郎と秋江がつながりました。

表3 弾正~秋江の力丸家
藩 主 知 行 姓 名 その他
13代 松平治好 3人扶持 力丸弾正 ・「浪人」
3人扶持 力丸大吉郎 ・「弾正の子」
15代 松平斉善 3人扶持 力丸隆助 ・「大吉郎の弟」
16代 松平慶永 3人扶持 力丸貞三郎 ・「隆助の子」
17代 松平茂昭 切米15石3人扶持 力丸秋江
(注)「藩主」は力丸家の代替わり時の藩主。

東山は「年来志願」していたとあり、文化5年(1808)2月28日にその趣が「達御聴」したようです。13代治好が「殊勝之儀ニ思召」し、3人扶持を下されています。
当時、大吉郎は江戸に出ており、他家で仕官が叶えば「勝手次第可致旨」を申し渡されたとあります。たしかに治好も江戸にいたようです(24)。東山の亡くなる7年前、大吉郎は19歳でした。

以降、この3人扶持は大吉郎、隆助、貞三郎にも下し置かれ、秋江の代、17代茂昭の代になって「数代相続志願殊勝之趣ニ付格別之御厚評を以」帰参を仰せ付けられたのでした。

「諸役人并町在御扶持人姓名 (十一)」

松平文庫「諸役人并町在御扶持人姓名 (十一)」(1コマ目

「諸役人并町在御扶持人姓名 (十一)」

松平文庫「諸役人并町在御扶持人姓名 (十一)」(49コマ目

「諸役人并町在御扶持人姓名 (十一)」

「松平文庫「諸役人并町在御扶持人姓名 (十一)」(50コマ目

5.資料はある ~貞享3年の御暇と延享4年の御暇~

5-1.貞享3年に御暇を下された十兵衛

「給帳」のうち、初代秀康・3代忠昌・4代光通・6代綱昌・7代吉品・10代宗矩・14代斉承は『福井市史』資料編4 近世二(福井市、1988年)に、16代慶永は『福井県史』資料編3 中・近世一(福井県、1982年)に、「諸士先祖之記」は『福井市史』資料編4 近世二に翻刻が掲載されています(「諸士先祖之記」は抄出)。

このような自治体史や資料集など、活字になっている資料はたくさんあります。
『福井市史』資料編4 近世二には、「「藩と藩政 上」として、慶長5年(1600)結城秀康入封以後の松平家および福井藩士に関する文書(記録・著作を含む)」が収められています(25)。目次を眺めると「半知ニ付家中減員覚帳」という資料がありました(底本はA0143-01313松平文庫「御家中末々迄被減覚」)(26)。
そして、いました「同(四百石―筆者注)同(御使番―筆者注)力丸十兵衛」、十兵衛です(27)。表1の6代綱昌の十兵衛(400石)は貞享の半知で御暇を下されていました。

「御家中末々迄被減覚」

松平文庫「御家中末々迄被減覚」(2コマ目

「御家中末々迄被減覚」

松平文庫「御家中末々迄被減覚」
5コマ目、十兵衛は5コマ目の左から2人目)

5-2.延享4年に御暇を下された又左衛門

十兵衛の御暇の資料は、意外と手近なところにありました。
又左衛門の「不所存」は、自身の「御暇」だけでなく、他家の「知行御取上ケ」や「御叱」にも及んでいます。よくあること、ではないでしょう。
もしかすると、どこかで取り上げられているかもしれません。福井県立図書館のウェブサイトで「力丸」を「横断検索」してみましょう。

75件見つかりました。福井藩士力丸家に関連しそうな資料は、福井大学附属図書館の朝倉治彦監修『訓蒙図彙大成』(大空社、1998年)、県立図書館と若狭図書学習センターの森恒救『福井藩史話 下』(歴史図書社、1975年)、県立図書館の福井市立郷土歴史博物館編『郷土の人脈』(福井市立郷土歴史博物館、1972年)あたりでしょうか。

『訓蒙図彙大成』は、同名書の影印本(写真を製版、印刷した本)でした。原本は寛政元年(1789)に刊行された中村惕斎編『訓蒙図彙』の増補版です。
その序文に「越前 力丸光撰」とあり、その下には「東山」という印記があります。力丸東山のようです。ちなみに「デジタルアーカイブ福井」で検索してみると、寛政元年刊行の『訓蒙図彙大成』は松平文庫にもありました(28)。

『福井藩史話』は、解説によると福井新聞記者森恒救による同紙の連載「史談」「福井城の今昔」がもとになっているようです。当時の福井新聞は保存されておらず、原稿も焼失しているため、郷土史家による謄写本を底本として刊行したとあります(29)。
同書には「仙石力丸詰腹騒動」という聞き書きが収められています。前述の仙石庄右衛門と力丸又左衛門です。

延享期(1744~1748)、ある日の夜に江戸詰中の又左衛門が「不心得」で門限に遅れてしまいました。江戸では同僚の取り成しで大事には至らなかったものの、噂は福井まで伝わり、「諸士の笑話」になったそうです。「立腹したるは仙石庄右衛門」です。庄右衛門は又左衛門の「伯父」でした。
帰国後、又左衛門が庄右衛門を訪ねたところ、そこで庄右衛門に切腹を迫られ、又左衛門はやむなく切腹したといいます。庄右衛門は切腹として届け出ましたが、「詰腹」を切らせたと知れて「家禄百石取上げの上逼塞申付けられ、力丸家は又左衛門の無調法公となりたるため追放」になったとあります。
また、話は東山から代々下し置かれた扶持にも及んでいます。
ただ、ここでは春嶽(16代慶永)が上洛中に力丸家の前を通りかかり、「越前浪人力丸某」という表札を目に留めて「其の志と家柄に愛でゝ唯今より一生手当を遣はさんとの御意にて、力丸家は旧主より手当を受くると事なれり。」とあり、16代慶永が「旧恩を忘れず越前浪人と表札打つたる心掛け」に感心して扶持を下したことになっています(30)。

「詰腹」と「手当」の部分は、鈴木準道からの聞き書きです。本書の底本の郷土史家による謄写本は、また別の郷土史家による手写本の謄写であるといい(31)、書写に書写が重ねられて細部が変化している可能性はありますが、「不心得」から「詰腹」という大筋は連載時のとおり、準道が語ったとおりでしょう。
「不心得」から「詰腹」を切ったとすると、秋江の履歴は、あえて記述を避けたのでしょうか。

『郷土の人脈』は、福井市立郷土歴史博物館の創立20周年記念特別典の解説総目録でした。展示資料の中に東山の「書幅 一幅 春文」があります。福井市立郷土歴史博物館福井市春嶽公記念文庫に東山の書があるようです(32)。

6.力丸隆輔(秋江)の明治

『福井藩士履歴』の力丸秋江(隆輔)の履歴には、まだ続きがあります。

慶応元年(1865)6月8日、名替(秋江→隆輔)
慶応3年正月12日、御留守居方書記役仰付
慶応4年6月2日、御勤局書記役仰付
明治3年4月10日、公務局筆者申付
明治3年9月27日、会計寮御用心得
明治3年12月20日、十六等心得
明治4年6月朔日、免職
明治4年8月3日、に福井県へ引越 申付

その後、力丸家はどうなったのでしょうか。『福井藩史話』には「維新後力丸家は何れへ退転せしか所在不明となりぬ。」とあります(33)。

ところが、思わぬところに隆輔(秋江)に関する資料がありました。国立公文書館の「国立公文書館デジタルアーカイブ」です(公01276100-023公文録「柳原前光ヨリ父光愛女浜ヲ敦賀県士族力丸隆輔方ヘ養女差遣度願」太00557100-134太政類典「華族柳原前光父光愛女ヲ敦賀県士族力丸隆輔ノ養女トス」)。

それから数年後、明治7年(1874)12月に隆輔は養女を迎えていました。
それがなんと、相手は華族柳原家、その子女というのです。当時子女の父光愛は正二位、兄前光は正四位、姉愛子は権典侍でした。愛子は後に嘉仁親王を生みます。嘉仁親王は後の大正天皇です。

「柳原前光ヨリ父光愛女浜ヲ敦賀県士族力丸隆輔方ヘ養女差遣度願」

公文録「柳原前光ヨリ父光愛女浜ヲ敦賀県士族力丸隆輔方ヘ養女差遣度願」
(国立公文書館所蔵)

「柳原前光ヨリ父光愛女浜ヲ敦賀県士族力丸隆輔方ヘ養女差遣度願」

公文録「柳原前光ヨリ父光愛女浜ヲ敦賀県士族力丸隆輔方ヘ養女差遣度願」
(国立公文書館所蔵)

「柳原前光ヨリ父光愛女浜ヲ敦賀県士族力丸隆輔方ヘ養女差遣度願」

公文録「柳原前光ヨリ父光愛女浜ヲ敦賀県士族力丸隆輔方ヘ養女差遣度願」
(国立公文書館所蔵)

「柳原前光ヨリ父光愛女浜ヲ敦賀県士族力丸隆輔方ヘ養女差遣度願」

公文録「柳原前光ヨリ父光愛女浜ヲ敦賀県士族力丸隆輔方ヘ養女差遣度願」
(国立公文書館所蔵)

柳原家は堂上家(名家)、隆輔は敦賀県士族、京都で接点があったのでしょうか(ちなみに養女は後に華族堤雄長の妻になっています)。

今回は、力丸東山から「福井藩士力丸家の歴史をたどる」が目的でしたので、『福井藩士履歴』を入口にして調査をはじめました。
たとえば、学者としての東山なら国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録データベース」など、もう少し限定して「武士道」研究なら『武士道叢書』など、これらを入口にしてさらに調査をすすめられそうです。
インターネット、活用しない手はないでしょう。

堀井 雅弘(2020年(令和2)6月26日作成)
(8月1日加筆)

※番外編 「力丸又左衛門の知行所・力丸家の屋敷」はこちらをご覧ください。

参考 福井藩士力丸家一覧表
姓名 知行 主君
(先祖 (未詳 北条氏直 ・北条氏直家臣
・「粟田口取合之砌一手之頭被申付采拝ヲ賜候由」(松平文庫「諸士先祖之記」)
初代藤左衛門勝時 1,000石 北条氏直
北条氏家
初代結城秀康
・北条氏直・氏家家臣
・「氏家高野山ヱ入被申候節御供仕送り届ケ其後暇ヲ取浪人」(「諸士先祖之記」)
・秀康代召出(「多賀谷修理大夫取持ヲ以テ」(同上))
・本国上野・生国越前
・十兵衛祖父
藤左衛門 800石 2代松平忠直 ・初代勝時か
・慶長18年(1613)頃の屋敷は東三の丸内
・番外(慶長18年頃)
左次右衛門 200石
2代藤左衛門治時 800石 3代松平忠昌 ・忠昌代家督 ・生国越前
・「大坂御陣之時母衣騎馬九人之内ニ而御供」(「諸士先祖之記」)
3代藤左衛門重時 600石 4代松平光通 ・正保4年(1647)家督
・生国越前
・初名十兵衛
・寛文期に組頭か
十兵衛 400石 6代松平綱昌 ・貞享2年(1685)時の屋敷は足羽川左岸(舟渡付近)
・貞享3年(1686)御暇
4代又左衛門建時 200石 6代松平綱昌 ・延宝5年(1677)跡知
・生国越前 ・坂井健夫家「充行領知事」(綱昌発給)
・貞享2年(1685)時の屋敷は十兵衛の又隣
100石 7代松平吉品
5代又左衛門本雅 25石5人扶持 7代松平吉品
8代松平吉邦
・元禄10年(1697)跡目
・生国越前
・実父山原伝左門友勝
・御番組
・正徳4年(1714)時の屋敷は御泉水屋敷付近
(仙石庄右衛門) 100石 7代松平吉品
8代松平吉邦
9代松平宗昌
・宝永元年(1704)跡知
・生国越前
・実父力丸又左衛門本雅
・5代又左衛門の長男
・御留守番二々(番)、御勘定頭
100石
→25石5人扶持
10代松平宗矩
次左衛門 (未詳) 9代松平宗昌 ・6代又左衛門か
・享保5年(1720)召出、同11年家督
・擬作返上
治左衛門 20石3人扶持 10代松平宗矩 ・次左衛門か
・大御番組五番
6代又左衛門
(金右衛門)
25石5人扶持 10代松平宗矩 ・5代又左衛門の二男
・元文元年(1736)没
7代又左衛門
(源六)
25石5人扶持 10代松平宗矩 ・元文元年(1736)家督、名替(源六→又左衛門)
・延享4年(1747)御暇・御国立退
藤左衛門 (なし) (なし) ・7代又左衛門の弟(『越前人物志』ほか)/「又左衛門の祖父又左衛門の弟」(『武士道叢書』)
丸龍 (なし) (なし) ・藤左衛門の子
・円海寺(坂井郡三国新保)の僧
十郎左衛門武英
(宗庵、鎗?)
(なし) (なし) ・丸龍の子
弾正
(之光、東山)
3人扶持 13代松平治好 ・十郎左衛門武英の子
・文化5年(1808)扶持、同13年大病
・「浪人京都住」(松平文庫「諸役人并町在御扶持人姓名 (十一)」)
大吉郎
(之靖、白山)
3人扶持 14代松平斉承 ・弾正の子
・蓮華王院(三十三間堂)半堂百射を開基
・文化13年(1816)扶持、御奉行支配、天保8年大病
・「浪人京都住」(「諸役人并町在御扶持人姓名 (十一)」)
隆助 3人扶持 15代松平斉善 ・大吉郎の弟
・天保8年(1837)扶持、同11年病身
貞三郎 3人扶持 16代松平春嶽 ・隆助の子
・天保11年(1840)扶持
秋江
(隆輔)
3人扶持 16代松平春嶽 ・「京都出入」(松平文庫「給帳」(資料番号01320))
・慶応元年(1865)5月25日帰参
・「敦賀県士族」(国立公文書館「公文録」「太政類典」)
・柳原浜(華族柳原光愛の子女)の養父
3人扶持
→15石3人扶持
17代松平茂昭

(1) 本コラムでは、松平光長(2代藩主松平忠直の子で、忠直の弟松平忠昌の甥)は代数に含んでいません。
(2)福井市立郷土歴史博物館福井市春嶽公記念文庫「徳川斉昭書状松平慶永添書」。資料については『春嶽公記念文庫解説目録 -文書編-』(福井市立郷土歴史博物館、1972年)71頁。
(3)『武道初心集』については、大道寺友山著・古川哲史校訂『武道初心集』(岩波書店、1943年)、古川哲史『武士道の思想とその周辺』(福村書店、1957年)、アレキサンダー・ベネット『武士の精神とその歩み -武士道の社会思想史的考察-』(思文閣出版、2009年)、笠谷和比古『武士道 侍社会の文化と倫理』(NTT出版、2014年)、中嶋英介『近世武士道論 -山鹿素行と大道寺友山の「武士」育成-』(東北大学出版会、2019年)ほか参照。
(4)井上哲次郎『武士道叢書』中巻(博文堂、1905年)263頁~322頁、植木直一郎編『武士道全書』第五巻(時代社、1942年)210頁~264頁。『武士道叢書』中巻は国立国会図書館の「国立国会図書館デジタルコレクション」で公開されています(当該頁はコマ番号151~182)。
(5)福田源三郎『越前人物志』上巻(思文閣、1972年復刻版)。原版(玉雪堂、1910年)が「国立国会図書館デジタルコレクション」で公開されています
(6)福田源三郎『越前人物志』中巻(・下巻)(思文閣、1972年復刻版)。原版(玉雪堂、1910年)が「国立国会図書館デジタルコレクション」で公開されています
(7)『坂井郡誌』(福井県坂井郡教育会、1912年)。「国立国会図書館デジタルコレクション」で公開されています
(8)石橋重吉『若越墓碑めぐり』(若越掃苔会、1932年)。
(9)前掲注5『越前人物志』上巻、511頁~515頁(「国立国会図書館デジタルコレクション」で当該頁はコマ番号315~317)。
(10)前掲注6『越前人物志』中巻(・下巻)639頁・640頁(「国立国会図書館デジタルコレクション」で当該頁はコマ番号321・322)。
(11)前掲注6『越前人物志』中巻(・下巻)639頁~641頁(「国立国会図書館デジタルコレクション」で当該頁はコマ番号321・322)、前掲注7『坂井郡誌』420頁~421頁(「国立国会図書館デジタルコレクション」で当該頁はコマ番号232)。
(12)『福井藩士履歴 3 け~そ』(福井県文書館資料叢書11、福井県文書館、2015年)。
(13)前掲注11『越前人物志』中巻(・下巻)、『坂井郡誌』、および前掲注8『若越墓碑めぐり』。
(14)前掲注8『若越墓碑めぐり』61頁。
(15)『福井藩士履歴 1 あ~え』(福井県文書館資料叢書9、福井県文書館、2013年)~『福井藩士履歴 6 み~わ』(同14、同、2018年)、『子弟輩』(同15、同、2019年)、『新番格以下1 イ~リ』(同16、同、2020年)。なお、『新番格以下』は全6冊の予定。
(16)前掲注15『新番格以下1 イ~リ』。
(17)「新番格以下」には士卒の卒が掲載されています。ただし、与力・足軽は掲載されていません(与力は士分に掲載されています)。
(18)『福井県史』通史編3 近世一(福井県、1994年)147頁・148頁。『福井県史』通史編(全6巻)は福井県文書館ウェブサイトで公開されています(ウェブサイト内「デジタル歴史情報」ページ)
(19)令和2年6月時点で既刊は全6冊(予定)中1冊。
(20)『福井市史』資料編4 近世二(福井市、1988年)958頁~959頁。
(21)5代松平昌親は欠。
(22)令和2年6月26日時点。
(23)8代吉邦以降も順次公開予定。
(24)印牧信明「福井藩の参勤交代に関する基礎的考察」(『奈良史学』29号、奈良大学史学会、2011年)、初出は福井市立郷土歴史博物館平成20年秋季特別展の解説図録『福井藩と江戸』(福井市立郷土歴史博物館、2008年)。
(25)前掲注20『福井市史』資料編4 近世二、凡例。
(26)前掲注20『福井市史』資料編4 近世二、257頁~277頁。
(27)前掲注20『福井市史』資料編4 近世二、258頁。
(28)A0143-M200030000松平文庫「頭書増補訓蒙図彙大成 巻一~二一、附目録一巻」。なお、国立国会図書館デジタルコレクション早稲田大学古典籍総合データベース内藤記念くすり博物館収蔵品デジタルアーカイブでは画像が公開されています。
(29)『福井藩史話 上』(歴史図書社、1975年)解説。
(30)『福井藩史話 下』(歴史図書社、1975年)287頁~300頁。
(31)前掲注29『福井藩史話 上』解説。なお、解説には「現在窪田本(手写本-筆者注)の所在は不明」とありますが、その後、現存が確認されています。
(32)『春嶽公記念文庫解説目録』什器編(福井市立郷土歴史博物館、1974年)8頁。
(33)前掲注30『福井藩史話 下』294頁。




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