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 第二章 藩制の成立
   第一節 福井藩と小浜藩の成立
    三 幕府と福井藩
      貞享の半知
 綱昌は初め無難に藩主の仕事をこなしていたようである。ところが、天和元年(一六八一)三月十五日江戸城から帰宅したあと発病し、以後藩邸に引き篭もったまま登城することも帰国することもなく、家中の挨拶も受けなかったという。貞享元年には領知判物が下されたが、昌勝が名代として登城して拝領している。同三年閏三月六日、昌親と一門の諸大名が江戸城に召喚され、綱昌の「気色宜しからざる」ゆえに「領分召し上げらる」との、将軍綱吉の上意が示され改易が決定した(「家譜」)。この綱昌の処分については、憶測も含めて様々の噂が流れたが、例えば元禄初年の成立とされる『土芥寇讎記』は次のように伝えている。
 隠居した昌親は、何事も自分の意のままにならず経済的にも不自由なため、再び越前を「押領」しようと計画し、綱昌の「乱気」を幕府老中に訴えたというのである。『土芥寇讎記』の著者は、昌親を評して「奸智」「猿利根」「底意地悪ク」、うわべは「柔和無欲」にみえるけれども、内心は「吝嗇」であり、「不仁不義の行跡評するに足らず」といっている。先述の光通への言い分からうかがわれることとあまりにもかけ離れた評価であり、いまのところどちらとも判断しかねるが、綱昌と不和ではあったのであろう。
 四七万五二八〇石を没収された綱昌には、それでも一門のゆえか生涯にわたって二万俵が与えられることになった。代って昌親(後の吉品)が新規に二五万石で再封されたが、福井藩の所領はいっきょに半減したのである。実際には半分よりやや多いが、この事件を「貞享の半知」とか「貞享の大法」という。綱昌の処分は、この後の福井藩のあり方を大きく変えた。後年折りにふれては「御半知以後」とか「御大法以後」といって、この事件が思い出されるのもそのためである。



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