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 第二章 藩制の成立
   第一節 福井藩と小浜藩の成立
    三 幕府と福井藩
      寛文期の福井藩
 光通が承応二年初入部した時に発布した法令は、ほとんど父忠昌の時のものの踏襲であった。翌三年光通は参勤交代のために出府するが、これ以後だいたい三月下旬に福井を発駕し、翌年の五月末から六月の初めに帰国することを例としており、小浜の酒井忠勝が大老であったためほとんど帰国できないのと対照的であった。この間慶安二年に杉田三正と本多富正、翌年永見吉次、さらに万治二年には狛孝澄と、父以来の年寄が死去している。今や光通に出仕した者たちが藩政の中軸を担い始めており、自ら藩政を主導する条件が整いつつあったのである。この時期の法令が、主として光通在国中に出されているのも、理由のあることであった。
 寛文期の動きを「家譜」を中心にみると、まず明暦元年、家中への奢侈禁止令を出すとともに、百姓へ理不尽の振舞いをすることを禁じ、勝山御領分の物成拝借が始まった。万治二年には「人改め」を行い(西野次郎兵衛家文書 資6)、翌年の郷中法度では、不審なる者を村々に居留させないことを定めた(堀田五左衛門家文書 資6、上田重兵衛家文書 資7)。寛文元年六月、九十九橋北詰めに伝馬駄賃の公儀札を掲げるとともに領内要所にも触れ流し(西野次郎兵衛家文書 資6)、八月には藩札を発行し、十一月には百姓に対し、福井藩のみならず大野・松岡・吉江・丸岡の藩士にまで無礼があってはならないことを再確認し、以後繰り返し触れるところがあった(上田重兵衛家文書 資7)。二年には二度にわたって家中に厳しく倹約を求めたほか、「糸綿」の他国他領への売買を禁止し(同前)、五年には在々に対しても倹約を命じている(大滝神社文書中の川崎家文書 資6)。六年には百姓に対し、年貢皆納以前に借銀をしてはならないこと、年貢の未進をせず期限通りに納入すべきであること、代官下代へ賄賂がましきことをしてはならないことなどを厳しく申し渡した(堀田五左衛門家文書 資6)。これら百姓への法度は、それを庄屋のもとに写し置かせて小百姓への徹底を図り、もし違反者が出れば庄屋・五人組まで落度にするとの請書も徴している。
写真45 大桐村五人組請書

写真45 大桐村五人組請書

 寛文七年五月に帰国した光通は三七歳になっていた。翌八年一月飯田主米を家老に抜擢し、本格的な改革に乗りだしている。三月十五日には代官を廃止することと、知行所の免(年貢率)を七年平均しそれをこえる分を借知にすることが示された。続いて十八日、蔵入・知行地ともに「百姓代官」(「家譜」)とすることと、借知の比率が申し渡され、同時に三通りの倹約令も出されている。二十五日には「百姓共費えの儀少々これある」ゆえ「百姓代官」とすること、百姓の「小役」を免除すること、および百姓が分限を守るべきことなどが申し渡された。光通はこのあと出府するが(四月十一日江戸着)、四月に入ると七三人の「百姓代官」が任命され、年貢や掟のことについてこの者どもが申し渡すことの遵守を命じ、五人組の請書を徴している(堀田五左衛門家文書 資6)。五月十八日には「当秋・面々知行所公儀より支配たるべき」こと、七月十二日には「十八日・面々知行所公儀江請け取り」になることが決まり、以後給人は知行所へ「自分の下知・催促人」を遣わすことを禁じられた。後に詳述するように、全藩的な割地が開始されるのも寛文八年であった。
 十一年に入ると、家中の買掛の支払い不能分や、親類からの借銀の有無までも含む借銀調査が行われた。この調査によって家中借銀を放置できないことが判明したためだろうか、翌年には借銀が嵩んで「身上続きがたき面々」への助成策として、借銀の多寡にしたがって物成の一部を出させ、これに藩からの米五万俵を加えて家中借銀の整理に充てることにしている。
 このようにみると、福井藩では寛文八年を中心とする寛文期を藩政の画期とみることができそうである。この時期の政策はおおむね昌親と綱昌に受け継がれているが、延宝五年には「百姓代官」が廃められ、知行地も戻されて一律の借知となったようである。なお、飯田主米は同じ年に失脚し国を去った。



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