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 第二章 藩制の成立
   第一節 福井藩と小浜藩の成立
    三 幕府と福井藩
      普請役と農民の負担
 幕府は江戸城や駿府城また禁裏造営などに、たびたび諸大名から普請役を徴した。表16は秀康以来福井藩に課された普請役を示したものであるが、いずれも諸大名と共同で負担して勤めている。普請役には家臣を動員したほか、大量の石や材木などの資材を用意せねばならなかったので、後述の小浜藩でみられるように膨大な費用を要したのであり、一門とはいえ決して特別扱いされたとはいえないようである。

表16 福井藩の普請役

表16 福井藩の普請役
注) 「家譜」『徳川実紀』などによる.
 例えば寛永五年十二月、田安門の分担を命じられた忠昌は、本多富正と杉田三正(四五〇〇石)を普請惣奉行に任じている。三正は小倉左馬助(六〇〇石)などとただちに出発し、続いて富正も翌正月五日に普請目付の秋田内蔵丞と福井を発ったが、この時忠昌は、いくら費用がかかってもかまわないから普請に油断することないように命じている。さらに藩士が三組に分かれ、それぞれ人足を率いて江戸に向かった(「家譜」)。
 工事は九月に完了したが、「公辺御役方江御進物御入用銀高五拾貫目余ニ相成」るといわれるように、幕閣への「進物」だけで一〇〇〇両近く要したのである(「家譜」)。福井藩の出費や惣人数などははっきりしないが、この時「惣人夫三千五百人」(『国事叢記』)と伝え、慶安四年の時は任務終了後「公儀・四千五百人扶持壱人壱升宛御頂戴」(「家譜」)ともいうから、人夫も含めて数千人を動員したとみられる。
 これらはいうまでもなく農民に転嫁された。例えば、忠直のころ大野郡には新保村仁右衛門など六人の組頭が置かれていたが、そのうち勝山町組頭五郎右衛門組は、二三村一万〇二六三石余からなっており、ここに給人三三人分、合わせて七九三八石三斗四升の知行地が設定されていた。元和六年(一六二〇)この組は一五〇〇石に一人宛の「夫丸」を徴発されていたが、忠直の「丁場」(持場)が崩れたため、九月二十日さらに「増夫」(追加の人足)が追徴されることになった。増夫は初めの差額分など一八七八石余が役引として差し引かれ、残り六〇六〇石余に対して一〇〇〇石について二人、合わせて一二人が割り当てられた。このうちの六人は「千石として仕た(立)て」ること、すなわち農民が実際に出夫するものとし、他の六人には「やとい(雇)夫」として一人につき米が納升で八俵与えられた。残る六〇石余は七分役(四二石余)として、他の五組とまとめて銀子で算用するものとされている。しかも人夫は二十三日の未明までに用意すべきこととされたうえに、秀康の時には結城晴朝の母方の孫であるため「役無衆」とされていた水戸三七の知行地まで対象とされているから、藩にとっても農民にとってもきわめて厳しいものがあったのである(室屋笠松家文書 資7)。
写真44 大坂普請増人足割帳

写真44 大坂普請増人足割帳

 これらの事情について大野領代官矢野伝左衛門は、元和六年十二月二十六日付の平泉寺賢聖院へ宛てた書付で、寺領以外の農村が「大坂御普請役に出し申し候分」を見積もれば、寺領は年貢率が二割高くなってもむしろ「御百姓仕合せ」といっている(『平泉寺文書』)。先述のように寺社領は、諸役を免除されたので普請役徴発の対象とならなかったから、その分が年貢率の二割以上に相当するというのである。いいかえれば、普請役の負担は年貢の二割以上の増徴に等しいということになる。
 苛酷な人夫徴発は、百姓の抵抗を招かずにはおかなかった。敦賀郡田尻村は慶長十三年(一六〇八)「江戸・駿河之夫銀」(澤本弥太夫家文書 資8)を負担していることが知られるが、元和五年敦賀郡東浦の一三か浦は、「江戸夫・北庄之詰夫其外之諸役しけしけつとめ」てきたので、重い年貢に加えての夫役徴発の苦しさを「何共迷惑仕り候」と訴えている(中山正彌家文書 資8)。それから数年後にも、敦賀郷中は「両年大坂の御普請」に、郡高二万石余のうち五〇〇〇石を「伝馬所」として役引されたが、残りの一万五〇〇〇石に三〇〇人の人足を徴発されたので、「小百姓欠落仕り候」と訴えることがあった(同前)。
 大野郡がそうであったように、また一般的に「千石夫」とも称されたごとく、人夫は一〇〇〇石について一人徴発されるのが普通であった。敦賀郡は一年に一〇〇〇石当たり一〇人となるから、きわめて高い比率といわねばならない。この時は「国中並に割物をろく(陸)ろく頼み申し上ぐべき事」(中山正彌家文書 資8)と、「ろくろく」すなわち他郡と同じように公平な割付を願っているから、大坂に近いためか、敦賀郡からの徴発がより苛酷ではあったのであろう。百姓なかんずく小百姓にとって、江戸夫・大坂夫また後に述べる大坂の陣への陣夫役への徴発が、堪えがたいほど重い負担であったと解されるのである。
 福井藩が寛永十年と正保二年に、走百姓の過料を定めたのも理由のあることであった。はっきりしたことはわからないが、伝えられる正保二年の丹生郡米ノ浦の逃散もこれらと無関係でないのではあるまいか。光通が寛文八年の「条々」で「公役普請等百姓中へ割懸け候事、費え無き様に正路に仕るべし」(堀田五左衛門家文書 資6)と公約しているのも、このような農民の抵抗への対処とみられる。



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