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 第二章 藩制の成立
   第一節 福井藩と小浜藩の成立
    三 幕府と福井藩
      昌親と直堅
 延宝二年光通が死去した跡は、昌親が二万五〇〇〇石をもって吉江から入って継ぎ、福井藩は四七万五二八〇石となった。光通には権蔵(直堅)という庶子があったが、延宝元年ゆえあって出奔していた。もともと光通には権蔵を嗣子にする気はなかったとみられ、あらかじめ寛文十一年にしたためておいた遺書で、譜代の家来が分散しないために家督を昌親に譲ることを願っていたのである。昌親は権蔵への配慮もあって「もつたいなき御事、言語に絶え申す」と固辞し、逆に兄昌勝の嫡子仙菊(綱昌)こそ「正統」であると推挙したが、幕命もあって結局相続することになった。そのためでもあろうか、ただちに綱昌を養子にすることを願って許されている(「家譜」)。
 直堅は一時大叔父松平直良の江戸屋敷などに身を寄せていたが、延宝三年一門の一員として認知されて備中守に任じられ、五年に一万俵を給与され、七年には江戸赤坂に屋敷を与えられている。次の直知の後、松江松平家の分家から直之が養子となり、享保二年越後糸魚川に一万石を賜って大名になった。最後の藩主茂昭は、この糸魚川から入って福井藩を継ぐのである。
 昌親はわずか二年後の延宝四年に致仕したので、福井藩主としては例外的に将軍の偏諱を賜ることなく終わった。跡は綱昌が継いだが、貞享元年九月二十一日に賜った領知判物にも、やはり昌勝の五万石分が含まれている。



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