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 第二章 藩制の成立
   第一節 福井藩と小浜藩の成立
    三 幕府と福井藩
      松岡藩と吉江藩
 昌勝は光通と同年で二か月早く生まれたが、妾腹のため嗣子となることができなかった。松岡の地は、初め芝原江上村(「正保郷帳」など)また芝原郷上村(「領知目録」など)といわれていたが、慶安元年十一月三日「松岡御館出来」(大連彦兵衛家文書 資4)と、この地に昌勝の居館が竣工して松岡と改めたらしい。慶安四年には光通や昌親とともに日光家光廟の普請を手伝っている。承応三年初めて入部し、以後この地から参勤するのを例とした。嫡子の綱昌は昌親の養子となっていたので、元禄六年三男の昌平(後の宗昌)が跡を継ぎ、享保六年(一七二一)本藩を継ぐまで存続した。なお、松岡藩が正式に福井藩から離されるのは、福井藩の半知の時とみられ、昌平は正徳二年初めて独自に領知朱印状を賜っている(越葵文庫 資3)。
 昌親が分知されたのは六歳の時であった。慶安元年在所を丹生郡立待郷吉江に願って許され、明暦元年初入部し、以後参勤交代にはこの地と江戸を往復した。万治元年には江戸鳥越に屋敷を拝領したほか、寛文二年に石田西光寺に禁制を発し、同十年には浅草御蔵火消番を蒙っている。吉江藩は、延宝二年昌親の本家相続によって廃された。
写真43 吉江町図(『越前国名蹟考』)

写真43 吉江町図(『越前国名蹟考』)

 ここで両藩への知行分けについて述べておこう。先に触れたように寛文四年に至っても、両藩の所領は正式には本藩に含められていた。しかし昌勝と昌親が成長するとともに、実際に村付けすることが必要となった。芝原と吉江の地を本拠にすることがまず決められたようで、慶安元年そのことについて幕府の許可を得て、翌二年知行分けが行われている。昌勝の場合、福井藩と松岡藩の家老と奉行人が相談のうえ、寛永十九年から慶安元年までの七年間の村ごとの「平均免」を勘案し、新田高と引高を差し引いて合計五万〇二〇〇石の村が決定したのである。この時の平均免は三割六分一厘四毛七糸、取米は一万八一四六石二斗三升四合とある(「松岡御領御知行分之帳」松平文庫)。昌親にも同じ方法で知行分けが行われたとみてよいが、その帳面は残っていない。今もなお吉江藩の所領を正確には知ることができないのは、そのような事情によっている。
 七万五〇〇〇石分を割くわけだから、給人衆の知行地も割替えを余儀なくされた。慶安二年八月「中書様(松平昌勝)・辰之助様(松平昌親)御両人様へ渡し申す御知行替知」のことが実施され、各給人へ算用所から「替知目録」が与えられている(奈良定一家文書 資3、松平千秋家文書など)。したがって、「正保郷帳」に両藩の所領が光通に含めて記されているのは、いまだ村付が決定していなかったからにほかならない。
 両藩ともに家臣は光通の者が割いて付けられた。「越州御代規録」(松平文庫)によると、知行取だけで昌勝に磯野石見など四七人、昌親には高屋善右衛門など二〇人が付属させられたという。そのため藩の職制や農民支配の仕組など、ほとんど福井藩と変わることはなかった。しかし、先述のように普請役を勤めているほか、敦賀着米の所書に松岡藩と吉江藩がみられることから独自に年貢米を送っていたことが知られ(「寛文雑記」)、また福井藩と吉江藩の用水争論に両藩の郡奉行と組頭が出張って処理しており(平井町区有文書)、藩政そのものは福井藩から自立していたことはいうまでもない。
 このような分知による分家の創出は、無嗣による本家の改易を回避するためにとられた方策と考えられている。本家に嗣子が得られない場合、分家から入って本家を継ぐことによって本藩の存続を図ったのであり、諸藩においてもままみられることであった。



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