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 第二章 藩制の成立
   第一節 福井藩と小浜藩の成立
    三 幕府と福井藩
      光通の襲封
 忠昌の跡は一〇歳の嫡子万千代丸(光通)が襲封した。藩主が年少の時は転封させられることが多かったが、一門のゆえか「幼少たりといえども大国相続仰せ付けらる」(「家譜」)と、そのまま越前に据え置かれたのである。この時、庶兄の千菊丸(昌勝)に五万石、庶弟福松(昌親)には二万五〇〇〇石が内分知され、松岡藩と吉江藩が成立し(表15)、福井藩は実質四五万〇二八〇石となった。内分知であるため二人に領知朱印状が下されることはなく、光通の領知に含めて与えられた。寛文四年(一六六四)幕府は、「寛文印知」といって統一的な領知判物と領知朱印状を発給するが、これにも五二万五二八〇石のうち「五万石松平中務大輔(昌勝)、弐万五千石松平兵部大輔(昌親)可進退之、残四拾五万弐百八拾石余、如前々充行之訖」(『寛文朱印留』上)とあり、三人の所領がまとめて記載されている。この時、中世末から様々に呼称されていた郡名が旧に復したが、越前でも一二郡からもとの八郡になった。また秀康系の大名は寛文四年時でみると、昌勝と昌親を合わせて七家一一七万石余に増えている。
 三人の兄弟は江戸で育てられていたので、正保三年本多富正が隠居した後は父の遺臣が藩政を主導していたが、幕府もまた国目付を派遣して補佐させるところがあった。国目付は、正保三年の林丹波守と堀三右衛門から、同四年下曽根三十郎・喜多見五郎左衛門、翌慶安元年(一六四八)徳永式部少輔・蒔田数馬、同二年の林丹波守と佐久間宇右衛門まで、四年続けて来国し、それぞれ数か月滞在している。林丹波守が平泉寺参詣の帰途死去しているのをみると、領内を巡視していたのであろう(「家譜」)。
 光通の初入部は一八歳の承応二年(一六五三)閏六月十日で、十二月には代替りの知行割を行っている。後に述べるように、光通の時に藩の諸制度や農民支配機構などが整備されたといってよい。他方この時代は、秀康以来の普請役(表16)や忠直の大坂出陣の諸出費、寛永末年の飢饉に加えて、万治二年(一六五九)と寛文九年の城下の大火、明暦三年(一六五七)のいわゆる振袖火事による江戸藩邸の類焼などによって、財政難が顕在化してきた時期でもあった。大愚和尚を招いて坂井郡田谷村に大安寺を創建して三〇〇石を寄進したり、吉田郡福万村に新田義貞顕彰の石碑を建立したのも光通の時である。
 なお、光通の妻国姫(国子)は松平光長の娘であるが(前掲図5)、歌人としても名高く、「東小町」として京都にも聞こえたほどであったという。寛文十一年死去したが、「よきことをきはめつくしてよきにいま帰るうれしきけふのくれかな」(「家譜」)という辞世を残している。



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