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 第二章 藩制の成立
   第一節 福井藩と小浜藩の成立
    三 幕府と福井藩
      忠昌の入封
 忠昌が越前に入ったのは寛永元年(一六二四)七月である。この時北庄を福居に改め、さらに元禄(一六八八〜一七〇四)頃福井に変わったとされている。しかし同じ月に家中へ宛てた「掟」に「福井(居カ)庄」(「家譜」)、十一月の敦賀郡の願(写)に「福井庄御奉行所」(中山正彌家文書 資8)とあり、その後も「正保郷帳」をはじめとする郷帳類が「福居庄町」とし、貞享二年(一六八五)の国絵図に「福居庄」、正徳二年(一七一二)以降の「領知目録」(越葵文庫)にも「福井庄町」などとあることからすれば、むしろ北庄を福居庄に改めたとみたほうがよく、福居・福井はもともと略称であって、それが定着したとも考えられるのではあるまいか。
 忠昌は入封直後から矢継ぎ早に法令を発して支配の方針を示した。家中に対しては武具や軍役を定め、町在には欠落ちものの還住や男女の永代売買を禁じ、また検見の時節に当たっていたので、代官や検見役人が百姓に非分を申し掛けないように命じている。
 寛永五年には東照社を勧請して翌年三〇〇石を寄進した。家康を祀る東照社の分祀は、幕府に服従したことを示すあかしとして、この時期の大名が競って行ったことであり、各地に勧請されていることが知られる。十一年には江戸霊岸島に屋敷地を賜り、南条郡二ツ屋村に口留番所  を設けている。十四年の島原の乱には出陣することはなかったが、一二人の藩士を陣中見舞いに派遣したという(「家譜」)。
 忠昌の政治を支えたのは、越前の事情を熟知した本多富正と、忠昌の幼少時代から仕えて年寄となった者たちであった。この頃の落首に、「頼むへし 本多丹波(富正)に壱岐如来(杉田三正) 鬼か志摩なる(永見吉次)伊勢(狛孝澄)海老のつら」(「越州御代規録」松平文庫)とある。富正は忠昌に加増されて四万五〇〇〇石となり、寛永十一年には伊豆守を改めて丹波守になった。吉次(秀康従弟)と孝澄はそれぞれ忠昌が五歳と七歳の時に秀康から付けられ、三正は孝澄の取持ちで同じ頃出仕したといい、この頃四人とも年寄(家老)であった(「諸士先祖之記」松平文庫)。秀康以来の遺臣と高田から扈従した者たちが合体したばかりであったので、何よりも両者の融合が求められたのである。
 寛永十一年将軍家光は大軍を率いて上洛するが、この時忠昌も京都に行き、八月四日付で五〇万五二八〇石の領知判物を賜った(表15)。これが忠昌の正式の領知高である。翌年松平直良が勝山に移った跡の木本領のうちの二万石を預かり、同十四年にはそれが加増されて福井藩は五二万五二八〇石となった。忠昌は代官二人を木本に派遣して「村々高付并人馬御改帳」を徴したという(五畿屋文書 資7)。正保元年(一六四四)には、同じく直良が勝山から大野へ移ったあと幕府領になった三万五〇〇〇石を預かっているが、これは「勝山御領分」(「正保郷帳」)とか「御預所勝山領」(「家譜」)といわれ、忠昌の領知高には含まれない。

表15 福井藩・松岡藩・吉江藩の郡別石高と村数

表15 福井藩・松岡藩・吉江藩の郡別石高と村数
  注1 (  )内は村数,相給を含む.
  注2 「徳川家光領知宛行状写」(越葵文庫 資3),「松岡御領御知行分之帳」(松平文庫),『寛文朱印留』『鯖江市史』
     通史編上巻により作成.
  注3 吉江藩は推定.

 忠昌は正保二年江戸で死去したが、身近に仕えていた七人の者が殉死している。この時は秀康の時のように追罰を受けた者はなく、七家は「殉死の者の家筋」(「諸士先祖之記」)として加増などむしろ厚遇されることがあり、三十三回忌の延宝五年(一六七七)には香典も与えられている(「家譜」)。



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