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 第二章 藩制の成立
   第一節 福井藩と小浜藩の成立
    二 福井藩の成立
      一門大名の創出
 忠直が処分された時光長は一〇歳の少年であった。この時江戸にいたので、笹路大膳が迎えに行き、三月に北庄に着いたという。光長の代のこととしては、五月に林久助等が出郷し、年貢についての申分や郡奉行の非分などを申し出るように命じていること(木村孫右衛門家文書 資6)、六月十二日光長が「御袋様」の意向で勝山神明別当興福寺に三七石余を安堵したこと(國泰寺文書 資7)、十月二十六日には本多富正など年寄衆の名で加増や寄子知行の書付が出されていること(山県昭彦家文書)などが知られる。七月二十九日には「越前国仙千代丸に仰せ付けらる」という、幕府の「条々」も下された(「家譜」)。ところが勝姫と光長は江戸に呼び戻されることになり、迎えにきた秋元泰朝等に伴われて北庄を後にした。
 翌寛永元年四月、幕府は光長を越後高田二五万石に移し、忠直の弟忠昌を北庄五〇万五二八〇石に封じた。忠昌は慶長十二年一一歳で上総姉崎で一万石を与えられて大名となり、その後常陸下妻三万石、信濃川中島一二万石を経て、この時高田二五万石の藩主であった。初め忠直の跡を忠昌に与えようとしたが、光長のことを慮った忠昌が固辞したため、高田を与えることで納得したという。続いて六月には忠昌の三人の弟、すなわち直政に大野五万石、直基に勝山三万石、直良には木本二万五〇〇〇石が与えられ、秀康系の大名は五家となり、領知高も合わせて八六万石となった。後のことであるが、直基と直良が大野と勝山に移った時、細川忠興は「何も何も御一門衆御仕合の儀」(寛永十二年八月二日付書状『細川家史料』)と羨ましがっている。
 このようにみると、光長は明らかに父の跡を継いだといわねばならない。光長と忠昌が入れ替ったことを、細川忠利は「越前御国替に罷り成り」(寛永元年五月晦日付披露状『細川家史料』)といい、秋田藩の重臣梅津政景も「越前ノ若子様ハ越後へ廿五万石ニ而御国替の由」(『梅津政景日記』寛永元年六月五日条)といっており、当時の大名などもそのように認識していたのである。そうすると福井藩の三代藩主は光長ということになるから、通例では十六代とされる慶永を十七代としなければならなくなる。しかしながら本書では、混乱を避けるために、事実を指摘するにとどめて、藩主の代数はとりあえず先例にならうことにした(図6)。
 なおこの時、丸岡の本多成重は福井藩を離れて、六〇〇〇石加増のうえ新たに譜代大名に取り立てられた。また敦賀郡は、当初から忠昌の所領に含まれることはなく、しばらく幕府領とされたのち小浜の京極氏にすべて与えられている。
図6 福井藩主系図

図6 福井藩主系図



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